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「語りあう関係を通じて正面から接すること、われわれはこれを正義と呼ぶ」

贈与する[10]――正義について考える【11】

2011年2月24日(木)

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存在する不安

 言いようのない不安を感じたことはないだろうか。何か体のしんのところから、不安がにじみでてくることがある。それは死の不安ではない。死など怖くはない。ただ生きていることそのものが不安なのである。存在の過剰さがもたらした不安と言ってよいかもしれない。

 レヴィナスが語るイリヤという経験も、こうした不安神経症的な性質を帯びていると考えることができるだろう。イリヤとはフランス語で、「それがそこにもつ」という意味であり、あるものの存在を示す言葉だ。ハイデガーが自然の贈与を示すときに語った「エス・ギープト」に対応するフランス語の表現である。

 レヴィナスはこのイリヤという表現の無人称性に注目する。それをすべての存在が姿を消す夜のようなものとして考える。すべてのものは見えなくなるが、存在しなくなったのではない。存在が過剰なまでに感じられるのに、何も存在するものはみえないのである。それは「何もない虚無によって充満している」[1]のである。その虚無に満ちた有は、「そこにじかに無媒介にある。語る言葉はない。わたしたちに答えるものは何もないが、この沈黙、この沈黙の声が聞こえる」[2]

 「これはもはや世界ではない。自我と呼ばれるものそれ自体が、夜に沈み、夜によって浸食され、人称性を失い、窒息している」[3]のである。そこであらわになるのは、存在ということの「不快」である。レヴィナスは「容赦なき、かつ出口なき存在という概念は、存在の本来的な不条理性を構成している。存在は不快[=悪]である。それも有限であるからではなく、際限がないからだ。不安とは、ハイデガーによれば、無の経験ということである。しかし死を無と理解するならば、不安とは死ぬことが不可能であるという事実ではないだろうか」[4]と語っている。存在が不安になるのは、与えられた存在の負い目が負担になるからだろう。

他者と時間

 自己の存在から逃れることのできないこの状態において、主体は主体にしばりつけられている。これは完全な孤独の状態である。わたしに存在が与えられ、わたしはその存在に不快を感じている。しかしこれを捨てることができない。それが不安の原因だとレヴィナスは考える。この不安を解消することができるのは、ただ他者の到来をまつだけである。「救済は、主体におけるいっさいがここにあるとき、他所からやってくるほかないものなのだ」[5]

 それは主体に時間が訪れることによって可能となるとレヴィナスは語る。イリヤのうちの主体は時間をもつことができない。存在の過剰のうちで、イリヤに触れられているからである。時間の「他性がわたしに訪れるのはただ他人からだけである。社会性は、時間についてわたしたちのもつ表象の源である以上に、時間そのものなのではないだろうか」[6]。この時間とは他者との「対話」である。まずは挨拶として、求められることなしに、他者に言葉を「与える」のである。

 レヴィナスが語りたいのは、人間は単独では時間をもてず、他者との対話にうちにしか、真の意味での主体であることができないということである。人間は存在の重さのうちにつねにあえぎながら、他者との対話のうちにしか、自己の実存の重みから解放されることはない。「社会性」ということは、人間の実存の条件に含まれている。他者との対話のうちにしか、存在の重みとその不安から逃れることはできない。人間であるということは、つねに社会的な存在であるということである。

責任

 ということは、人間は他者によって、初めて主体となることができたのであり、与えられた存在への負い目から解放されることができるということである。人間は存在を与えられたことによる負債を払うことはできないが、その負債から生まれる不安は、他者によって解消できた。しかしこれが新たな負債を生むのである。他者への負債である。レヴィナスは、人間には他者にたいする永久的な負債がかけられていると考える。それが他者への責任である。

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「「語りあう関係を通じて正面から接すること、われわれはこれを正義と呼ぶ」」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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牛島 信 弁護士