いつまでも「なぜ」と問い続ける
いつまでも問い続けている。
なぜ?
そうつぶやいて、気持ちが宙をさまよう。
なぜ……
またつぶやいて……一歩も先へ進めない。
そういうときがある。
「なぜ」と問うているその心の内には、ほんとうは疑問なんてありはしない。
いきさつ、原因、理由など、もうわかっている。
そんなことはとっくに知っていて、ちゃんと理解していて……。
それでも心は収まるところを見つけられずに、いつまでもいつまでも、さまよい続けている。
「わかってる……でも、なぜ」
ぼくだって、納得したいんだ。
うなづける話を、心が元の場所へ戻って落ち着くような話を、誰か聞かせてくれないか。
でも、これ以上何を聞けば、ぼくは納得するのだろう。
自分でも、わからない。
なぜ……
どこまで聞いても、何を知っても、残る問い。
問いたくもないのに問い続ける、答えのない問い、終わらない問い。
ぼくは、なぜ、このぼくなのだ?
どんな答えを聞かされても、なお問い続けることをやめられない。
答えのない問いが、ぼくらを苦しめる。
たとえば医師が説明する、「遺伝的要因によって、あなたはこの病気になった」と。
なるほど、ぼくはそのような遺伝子を持っているのだろう。だから病気になった。それは、わかった。
しかし、それでもなお、「その遺伝子を持っているのが、なぜ『このぼく』でなければいけないのか?」という、問いにもならない問いが残る。この問いには答えなどない。
あるいは警察官が「この天候で、あの道を車で走れば、誰でも事故を起こす」と言う。
そのとおりだ、必ず事故を起こし、深刻な事態を招くだろう。
しかし「その『事故を起こす人』が、なぜ『ぼくにとって大切なあの人』でなければならなかったのか?」という問いには、やっぱり答えがない。
「これこれこういう人が選ばれる」という必然的法則があり、まさにぼくがその条件を充たしているとしても、「このぼく、この自分が、なぜその条件を充たさなければならないのか」は偶然としか思えないのである。
自分でもわかっている。
ぼくは今、無茶を言っている。
ぼくは、なぜ、このぼくなのだ?
世界は、なぜ、このようなのだ?
そう問うているのと同じなのだろう。
「答えのない問い」を問うことに意義を見出す
答えのない問いは、答えがないから、問い始めたら終わらない。
ずっと胸の中から立ち去ることなく、それは世界を宙に浮かせて、事物の意味やいろいろな想いを希薄化してしまう。生が危うくなってくる。
ここから先は「日経ビジネスオンライン」の会員の方(登録は無料)、「日経ビジネス購読者限定サービス」の会員の方のみ、ご利用いただけます。ご登録のうえ、「ログイン」状態にしてご利用ください。登録(無料)やログインの方法は次ページをご覧ください。



1959年、東京生まれ。

からのご案内




