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正義と道徳の源泉「観察者の原理」とは何か

共感する【6】――アダム・スミスの共感論

2011年8月11日(木)

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中立な立場

 さてアダム・スミスは次に受難者の側からこの問題を考える。すでに考察したように、悲痛の表現も適宜性を欠くならば、他者からの共感をうけることはできないのだった。受難者を観察して、その立場に身をおいてみて、その感情の表現が過度なものであると判断されると、観察者は共感を抑えるようになる。自分がその立場であっても、そのような過度な悲痛を感じないという気持ちになるからである。

 ということは、受難者としてはそのことを考慮にいれて感情表現をしなければならないということだ。受難者は、「もっと完全な同感を、情念をこめて望む」[1]のであり、そのためには「かれの情念を、観察者たちがついてゆける程度に、低める」[2]必要があるのだ。観察者たちはただ想像によって同感しようとするのだから、その想像力の働きを考える必要があるのだ。

 しかも受難者は、共感を求める相手に最大限の要求をしてはならない。母親や配偶者であれば、不幸があったならば、何も言わなくても強い同情を与えてくれるだろう。そして優しく支えてくれるに違いない。ごく親しい友人なら、自分の表情からすぐに読み取ってくれるかもしれない。しかしたんなる知人には友人と同じような共感の強さを期待することはできないだろう。

 たんなる知人にはそもそもすべてのこまかい事情を語ることもできないだろう。そこで知人にたいして「多くの平静さをよそおうのであり、そしてわれわれの境遇について彼が考えたがっている一般的な輪郭に、われわれの思考を合わせようと努力する」[3]のである。見知らぬ人々を前にすると、「われわれはさらに少ない同感しか期待しない」[4]

 このようにして受難者はたえず、「もし自分が、自分の境遇にたいする観察者たちの一人にすぎなかったとすれば、どのようなやり方でそれから感受作用をうけるだろうかと、想像するように導かれる」[5]。この「中立的な立場」[6]から自分を眺め、自分の悲哀を観察し、それが他者にとって共感しうる適宜性の基準をみたしているかどうかを調べるようになる。そして自分の悲哀の表現が過度なものとならないように配慮するようになるのである。

 これはたんに観察者の共感を求めるための戦略ではない。自分の情念をそのままさらけだすのではなく、それを抑制して示す道徳的な姿勢が生まれるのである。受難者の「自戒と自己規制は、あらゆる情念の尊厳を形づくるもの」[7]であり悲痛を表明するときでも、それを抑制するマナーを示すことで、他者への配慮がその人の道徳的な資質として示されるのである。

 反対にそれが、観察者の共感をさらに強めるという逆の効果さえ期待できる。「なんの気兼ねもなく、ため息と涙と執拗な嘆きをもってわれわれの同情を求める、あのやかましい悲嘆には、われわれは不快をおぼえる。しかしわれわれは、目のはれあがり、唇と頬のふるえ、ふるまい全体の控え目だが心を動かす冷静さのなかにのみ自己をあらわす、あの抑制された、あの無言で荘重な悲哀を尊敬する」[8]とスミスは語る。その抑制が、観察者に悲哀の強さを強調することになるのだ。

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「正義と道徳の源泉「観察者の原理」とは何か」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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