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悲劇を経験して生まれたギリシアの民主政治

抵抗する[3]――正義について考える【27】

2011年10月20日(木)

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神の掟と人の掟

 このように、アンティゴネーは神々の掟に依拠して、国王の定めた国の掟に抵抗した。アンティゴネーが認めているように、これは「書き記されてはいない」掟である。共同体の伝統にしみついた自生的な掟であり、自然の掟だと言えるだろう。それにたいしてクレオンの定めは、君主が勝手にさだめた掟のようにみえる。「勝手なことをやったり言ったり」する君主の産物のようにみえるのである。

 この二つの立場は、たがいに相手を不正であると否認する。クレオンからすれば、アンティゴネーが弟を葬ったのは、「その兄にとっては非道とみえる勤め」[1]である。それは破壊されかけた共同体にとっても、「非道とみえる」もの、正義に反するものだろう。一方では、共同体の内部の批判的なまなざしからみれば、クレオンのさだめた「人の掟」は非道にみえる。息子のハイモンすら「あなたが正道を踏み外す」のをやめさせたい、「神々への務めを蹂躙なさる」[2]のをやめさせたいと思うほどなのだ。

 そしてこの非道の感情は、ハイモンだけのものではない。共同体の全員が感じていることなのだ。町のいたるところで、人々はアンティゴネーを悼んでいるのだ。「このうえなく立派な仕事をしたというのに、そのためにとりわけ惨めな死に様をとげようとは、ありとあらゆる女の中で、彼女はいちばん不当な目にあう者ではないか」[3]と人々は指摘する。兄の死骸が「生肉をくらう犬どもや野鳥の類いに荒らされるのを見過ごしにしなかったのだ、当然彼女は、黄金に輝く栄誉を授けられるべきではなかろうか、とこのような噂が、ひそかに闇のあいだを広がってゆきます」[4]というのが、人々のほんとうの気持ちなのだ。

ノモスとフュシス

 ここでこの対立は解きがたい矛盾に落ち込んでいることがわかる。まずこのようなアンティゴネーの批判が可能となる背景には、その当時のギリシアにおける重要な認識軸であったノモスとフュシスの対立が考えられる。ヘロドトスの『歴史』がもたらした重要な認識は、国ごとに掟が異なり、その民にとって自然と思われるものが異なるということだった。

 たとえばスキュタイよりもさらに北に住むイッセドネ人の風習によると、ある家の父親が死亡すると、「親戚縁者がことごとく家畜を携えて集まり、これを屠って肉を刻み、さらにその家の主人の死亡した父親の肉も刻んで混ぜ合わせ、これを料理にして宴会を催す」[5]のである。この民族は「正邪の理を弁えた立派な民族」[6]と言われているが、父親の葬儀ではその肉を食べるのが、親孝行であり、掟なのである。

 この民族の掟ノモスは、ギリシアのポリスの掟とはきわめて異なるものとなっているのは明らかである。それまでは民族の掟は、自然の掟のようなものとして、自然(フュシス)として考えられていた。しかしこのように風習が異なると、掟も異なるのである。ということは、何が掟であるかは、国によって異なるものであり、自然なものではないかもしれないということである。

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「悲劇を経験して生まれたギリシアの民主政治」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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