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われとわが身の優越から来る笑い

笑う[17]――笑いの優越理論

2012年5月10日(木)

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まなざしの変化

 これまでみてきたように、古代、中世、ルネサンスをつうじて、人々は生活の中で笑いを撒き散らしてきた。この笑いは、生きられた笑いである。そして笑いを理論化しようとする試みなどは、ほとんどみられなかった。笑いについての考察がなかったわけではない。笑いが人間の活動の一部であるかぎり、笑いの考察はかならず行われるだろう。しかし笑いそのものが人間の一つの特性や性格を意味するようになることはなかった。

 この状況が変わってきたのは、近代になってからである。それには大きなまなざしの変化が必要だっただろう。ルネサンスと近代の間に大きな裂け目があることを指摘したのは、フランスの思想家のミシェル・フーコーである。この裂け目は、シェイクスピアとデカルトの間に引かれる。

 近代という時代が到来すると、それまで神聖な領域との通路をもっていた狂気が、理性的でないものと判断される。道化が活躍を許されたのは、道化のうちで真理が語られると考えられたからだった。近代以前においては、「この種の人物は、もはやたんに片隅にいる滑稽でなじみ深いシルエットのごとき存在ではなく、真理の保持者として舞台の中央に位置を占める」[1]のだった。「道化は各人にその真理を思いださせる」[2]からだった。

 ところが近代になると、デカルトに代表される批判的で合理的な思考方法が、このような道化の明かす真理を否定するようになる。そしてこの「合理的な思考は、あのみごとな厳正さに導かれて、狂気を精神病として分析するにいたる」[3]のである。そもそも理性とは、合理的な判断のできるもののことであり、狂気でないものと判断されたのだった。そして道化を含めて、理性的でないと判断された人々は、もとは病院だった場所に、まとめて収容されるようになるのである。「大いなる閉じ込め」[4]の時代の始まりである。

ホッブズの理論

 それにともなって笑いの価値が著しく低下する。狂気につながる地位をそなえていた笑いが、その狂気との結びつきを切り離されて、人間のたんなる特性の一つとなったのである。こうして笑いの理論的な分析が始まる。それを象徴するのが、デカルトと同時代人であるイギリスの哲学者ホッブズの分析である。

 ホッブズは、人間をあたかも原子のように、周囲の環境からまったく切り離して、個別に合理的に判断することができると考える。人間は神が製造した人工の機械のようなもの、「自然の理性的にしてもっともすぐれた作品」[5]にほかならないのであり、その情念の仕組みも、その働き方も、合理的に判断できる神の産物なのである。

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「われとわが身の優越から来る笑い」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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