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それまでの一揆を思想的に乗り越えた嘉吉の土一揆

抵抗する[14]

2012年7月26日(木)

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嘉吉の土一揆

 嘉吉元年の一四四一年八月に、京都で「土民数万人」(『建仁記』九月三日)という大規模な大衆叛乱が発生した。その要求は「代初には此の沙汰は先例なり」(同)と主張するものだった。ここで「此の沙汰」とは「御徳政」(同)のことにほからない。これに対処するために、守護の佐々木氏を初めとして「侍所多数をもって防戦したが、それでも承引しない。土民数万なので防ぎえず」(同)という事態になった[1]

 九月三日になると民衆は法性寺を焼き、東福寺を攻撃し、幕府はひたすら防御に追われ、洛中を防備するくらいしかできなかった。そこで「幕府は洛外の土倉にたいして財宝を洛中に運ぶように命じた。ところがこれを伝え聞いた土一揆の側では、そのようなことをすれば天龍寺に放火すると言って、幕府を驚かせている」[2]

 さらに白河をはじめとするその他の地域でも土一揆が発生し、それぞれか「要所要所の神社仏閣を占領し、それを彼らの陣として立籠ったのである。しかもかかる陣は、一六か所に及び、その位置からいっても完全に京都を包囲するの陣形」[3]であった。そしてこのように京都を完全に包囲して、「京都七口をふさいだことによって、京中への物資の補給がとまってしまった」[4]のだった。七日には「売買すべきものはすべてなくなり、京都は飢饉」(『管見記』九月七日)という状態になったという。

 さらに一揆の側は、それ以前の正長の一揆(一四二八年)などと同じように、土倉や酒屋を攻撃し、借用書を出せと要求した。これが一揆の主要な目的だった。貸し手がこれを拒むと放火と略奪が行われた。ここで注目されるのは、一揆はたんに自分たちの借用書を取り戻そうとしたのではなく、秩序正しく談判し、この談判が決裂した後に、初めて襲撃するという方法を採用していたことである。

 そして談判の際には、野次馬たちを排除しようとしていた。河崎の土倉の場合には、一揆の連中ではなく、「見物の輩」が放火したことが記録されている。「この土一揆が、簡単な突発的な暴動・略奪というごときものであったのではなく、相当に統制のとれた行動に出ていた」[5]ことをうかがわせるものである。

 このように幕府の本拠地の京都が包囲され、食料にも事欠くようになり、幕府は正式な徳政を発布することを決定した。最初は幕府は、一揆の当事者である「土民の貸借関係」[6]にかぎって徳政を認めようとした。しかし一揆側は、これを認めず、「土民には特別な借物もなく、質物もない、公家・武家の人々の切迫の条が痛ましいから一揆を起こしたのであるから、悉皆・皆同の徳政令でないと納得できないと主張した」[7]

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「それまでの一揆を思想的に乗り越えた嘉吉の土一揆」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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