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一揆を成功させた村落の連帯

抵抗する[15]

2012年8月2日(木)

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中世の村落の問題

 この時代は日本の歴史の大きな分岐点にある。柳田国男は、日本人の日常生活は、応仁の乱の前後で大きく転換し、この乱の後は明治時代までほぼ同質のものとなったと述べたことがある。ぼくたちのみている一揆の時代は、この分かれ目の時代である。中世は大きな方向転換を前にしているし、その前にさまざまな可能性をもっていた。

 実際の歴史としては、日本の中世の村落や都市はやがては守護大名のもとで「一国平均」で支配され、それが江戸の幕藩体制となって、近世の二五〇年以上の長い時代を過ごすことになるのだが、あるいは村落や都市が自立した自由な存在となり、市民社会を形成する可能性だって、考えられなかったわけではないのである。

 鎌倉幕府の権威が明確なものだった東国は別としても、近畿と西国は、古代の荘園制の負の遺産を克服できないでいた。公分田をうけついだ国府の名田の制度と寺社を中心とする荘園の制度が混在し、農民たちはあるときは国府の制度を盾にとって荘園の領主の寺社に抵抗し、あるときは寺社の制度を盾にとって国衙に抵抗するという巧みな方法を採用することが多かった。それでも国衙や荘園領主の政治力や軍事力は強く、村落の自治はまだ不十分なものなので、結局は一揆によらなければ抵抗できないのが実情だった。

村落の分断

 嘉吉の土一揆が成功したのはどうしてかというのは難しい問題だが、その背後にある社会的な状況を考えることで、いくつかのヒントはえられる。まず最初にあげられるのが、村落の自治が実現していたことである。

 村落が自立するのは、ぼくたちが想像するよりも困難なものだったようである。さまざまな勢力がみずからの支配を貫徹するために、巧みに分断策を弄していたからである。たとえば村の農業の要である灌漑水を支配することで、現地の村落を対立させるという方法がしばしばとられたのである。

 石母田正の名著『中世的世界の形成』によると、奈良に近い興福寺の能登・岩井川の用水は興福寺の管理下にあった。この川によって灌漑されていたのは、神殿庄、三橋庄、四十八庄、超田尻庄、波多森新庄、京南庄の六庄だった。毎年、田植えの時期になると、興福寺は水の供給を庄の申請に基づいて認めた。そのため各庄は激しく争いをして水を求めたのだった。そして「不法用水を厳罰に処したばかりでなく、興福寺にたいして不法を行い、段銭以下の諸負担を滞納する庄にたいしては、給水停止をもって威嚇し、その死命を制することができた」[1]のだった。

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「一揆を成功させた村落の連帯」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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