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徳政を求める土一揆から国一揆へ

2012年8月9日(木)

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土倉の攻撃の意味

 さて、この一揆でとくに注目に値するのが、徳政を要求するにあたって、土倉や酒屋と秩序立って交渉していることである。そしてすでに指摘したように、この交渉は、たんに高利貸に借りていた自分たちの借金を棒引きにすることだけを目指すものではなかった。それは幕府に徳政を要求するものだったのである。

 この要求の背景には、一揆側の綿密な計算があったようである。高利貸にたいして、たんに自分たちの借金を棒引きにすることを求めるだけではなく、借金の証書を出させそれを破棄させたのである。そして一方では、幕府に「土民」だけの徳政ではなく、「一国平均」の徳政を要求したのだった。

 土倉や酒屋などの高利貸は、一揆勢の前である程度の証書を出して破ってみせればすんだかもしれない。しかし幕府はどうして徳政の要求を飲んだのだろうか。たんに京都が封鎖されて食料に困ったからではないだろう。それはこの一揆の要求がさらにエスカレートして、土倉などにさらに大きな被害が生じるのを防ぎたかったからだと思われる。幕府にとって、土倉などの高利貸は重要な意味をもっていたからである。

幕府と土倉

 南北朝の初期の時代には、京都の土倉や酒屋の多くは、社寺や公家の保護をうけていた。しかしこの社寺や公家の担当者が横暴な振る舞いをすることが多かった。そこで北朝は一三七〇年にこうした横暴な行為の取締を幕府に求めた。そこで幕府は土倉にたいする間接的な支配権を手にしたのである。

 やがて一三九三年に幕府は取締条例を出して、酒屋や土倉を直接に支配するようになった。そして毎月の収入の一部を幕府に収めさせることにした。やがて幕府はこの収入を幕府の運営のための費用としてあてるようになった。「これによって酒屋・土倉役は幕府の重要な経済的な基盤となった」[1]のだった。

 この時代には酒屋・土倉は「幕府の支配をうけ、その保護をえて栄え、その反対給付として定期の税銭を納入して、臨時役としての臨時要求に応じて莫大な納銭を行っていた。酒屋の定期の税銭だけでも、一年約六千貫に達し、それに加えて臨時の納銭があり、さらに土倉役の税銭もあったのであるが、酒屋・土倉の納税額はなかなか巨額にのぼるものだった」[2]

 だから幕府にとっては、酒屋や土倉がさらに大きな被害をうけるのを防ぐことは、みずからの政治の運営にかかわる重要な課題だったのである。酒屋や土倉は流通が活発になり始め、年貢の銭納が盛んになってきたこの時代の経済的な活動の要にあったのだった。幕府にとっては、これを保護するために徳政令をだすのは、みずからの利益を守るためにも必要なことだったのである。

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「徳政を求める土一揆から国一揆へ」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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