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中世日本に生まれた「共和国のさきがけ」

抵抗する[17]――山城国一揆

2012年8月23日(木)

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一揆の発生

 すでに紹介したように、山城国一揆は、国内からの畠山政長と畠山義就の軍隊の退去を求めるものであり、一四八五年に発生した。この事件で注目されるのは、たんに他国の軍隊を国外に追放することで終わったのではなく、八年にわたって共和政治的な体制のもとで、完全な自治を実現したことにある。

 この一揆は、一二月一一日に、集会を開いて「一味同心」[1]し、両陣に国外退去を求め、それを「問答」という形で、両軍と話し合った。これが神の前の平等と結束を約束した一揆の集まりであり、「神水集会」として強力な組織であったからこそ、両軍に撤兵を実現させる力があったのである。実際には賠償金のようなものを支払うことで、交渉が成立したが、退去しない場合には、「国衆として攻める」[2]と警告していることからも、両軍にとっては脅威だったはずである。

三か条の掟

 さらにこの一揆は、両軍を国外退去させることに成功すると、それで安心することになく、次の三か条の掟を発表して、自治的で共和的な政治体制を実現していったのである。

一 これ以降はどちらの畠山の軍隊も山城国の中には入れないこと。
二 国中の寺社本所は、もとのごとくに直務とすること。
三 新たな関所を立てないこと[3]

 それではこれらの要求はどのような組織が、どのような目的で定めたのだろうか。そして国内の自治はどのようにして実現されたのだろうか。この国一揆はどうして破綻したのだろうか。

惣の組織

 この三か条の要求は、「惣」と呼ばれる組織が定めたもので、一四八六年には宇治の平等院で集会を開いて、「国中惣法」を定めている。そして定期的に会合を開催して、国内の政治を運営するようになったのだった。

 この当時は、古代的な荘園体制が崩壊して、国内から自主的な形で村落が形成された始めた時代であった。この時代の畿内の村落の構造は、ほぼ百姓だけで構成される村人型村落、土豪が支配する土豪型村落、地侍と百姓の支配関係が中心となる地侍-百姓型村落に分類される[4]。山城国は、主に地侍たちのもとに百姓が従う地侍-百姓型村落が中心だったらしい。百姓は、地侍と主従関係を結んで、その「被官」となることで保護されていた。山城の国には三六人衆と呼ばれる主要な地侍がいて、畠山軍とは彼らが中心となって交渉をしたらしい。

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「中世日本に生まれた「共和国のさきがけ」」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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