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フィレンツェでも起きた民衆の叛乱

抵抗する[23]

2012年10月4日(木)

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特異年としての一三八一年

 さて、これまで一三八一年のイギリスの民衆叛乱ワット・タイラーの乱、一三五八年のフランスのジャックリーの乱をみてきたが、この時期にイタリアで発生して民衆叛乱を見逃してはなるまい。これは一三七八年に始まり一三八一年までつづいたフィレンツェのチオンピの乱である。

 一三八一年にはパリで前年からの反税金闘争がつづけられていたし、ネーデルランドのガンでも叛乱が起きていた。この年は中世の民衆闘争の歴史のうちでいわば特異年である。一九六八年の世界的な学生・市民闘争と同じように、中世の歴史の一つの転換点であっただろう。どこでも叛乱は挫折して、中世の向かう一つの方向性が閉ざされたようにみえるが、それでも政治的にも経済的にも、封建的な支配がそのままでは維持できないことを明確に示すことで、新たな方向性をみせたのだった。

フィレンツェの特異性

 このチオンピというのは、毛織物の職人たちのうちでも従属的な地位にあった梳毛工を指す言葉である。当時のフィレンツェは、市内に一〇万人、周囲の農村に一二万人の人口を数え、イタリア最大の都市であるだけでなく、ヨーロッパでも数少ない一〇万人都市だった。一三世紀頃からフィレンツェ商人はフランドルやシャンパーニュで羊毛地を買い付け、それを市内で染色・精製して「多額の剰余価値を付してヨーロッパ各地へ再輸出していた」[1]

 これは膨大な利益を生み、フィレンツェはこの収入を金融業で活用した。こうして商取引、手工業、銀行業という三つの産業を軸に、フィレンツェは繁栄をつづけていた。ただしこの都市国家の政治は、貴族階級、上層市民階級、アルテと呼ばれる組合を組織した職人たちが支配し、貧民たちは政治への参加をまったく認められていなかった。職人たちのうちでも、チオンピのように低い身分の者たちは、アルテを結成することもできず、冷遇されていた。

 こうしてフィレンツェは内部に大きな不安定要素を抱えていたのである。そもそもフィレンツェという国は、最初から分裂を繰り返してきた国家である。マキアヴェッリは、ローマは王政を廃止して民主制になると、カエサルの時代までほぼその体制が維持されたことを指摘している。ほかの多くの古代国家も同じような持続性を示していた。しかしフィレンツェは特異な国家であり、「一度の革新では満足せず、何度となくそれを城内で繰り返しているのが目立つ」[2]のである。

 「フィレンツェでは、まず同胞から分裂したのは貴族だった。ついで貴族と町人になり、しまいには町人と下層民との分裂になった。さらにまた、争いに勝った党派がさらに二つの新しい党派に分裂することも、何度となくあったのである」[3]とマキアヴェッリのいう通りである。

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「フィレンツェでも起きた民衆の叛乱」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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