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死の直前に一生涯の記憶が想起されるのはなぜか

記憶する[13]

2013年4月4日(木)

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精神と記憶

 すでに考察してきたように、ニーチェは記憶は人間にとって、過去の病とも言うべきものであり、この重荷をはらいのけないかぎり、人間は行動することができないと考えたのだった。このニーチェの主張にはそれなりの重みがあるが、これと正反対のことを主張するのがベルクソンである。ベルクソンは記憶があるからこそ、人間は行動することができると考えるのだ。

 まずベルクソンは、精神は記憶そのものであると考える。ぼくが友人にあることを語っているとしよう。どんなことでもいいのだが、例えば「明日、午後二時に電話くれますか」と頼んでいるとしよう。そしてたとえば「電話」と言っている時、その電話という言葉を語る瞬間に、ぼくはその前に語っていたことを記憶している必要がある。そしてこれから頼もうとする気持ちを感じながら、「くれますか」と語るつもりでいることを知っている必要がある。

 何かを語るということは、その前に語ったことを記憶していること、さらにこれから語る文の最後がどのように終わるのかを、まだ語っていない内容にいたるまで、記憶しているということだ。過去と未来の記憶がなければ、ぼくは文の途中で訳が分からなくなって、口をつぐんでしまうだろう。ベルクソンはそのことを「わたしの精神には、この語の始めと中間と終わりの音節ばかりでなく、さらにこの語に先立った語、またその文句の中でわたしがすでに発音したすべての語が現存しています。そうでなければ、わたしは話のつながりを失ったことでしょう」[1]と語っている。

 ベルクソンは、人間の内面的な生というものは、生まれて意識をもった瞬間に語り始め、現在にいたるまで、きわめて長い文を語りつづける途中にあるようなものだと主張する。「わたしたちの内面的な生活の全体は、意識が最初に目覚めた時から始まったただ一つの文句のようなものだと思います。その文句にはコンマはありますが、どこもピリオドで切れてはいません」[2]。ピリオドで中断されることのない、人間の一生と同じ長さの文、それが人間の精神生活だということになる。人間の意識や精神は、この文の記憶で綴られているのである。

記憶の存在場所と脳

 この記憶はどこに存在するのだろうか。多くの科学者は脳の中に存在すると考える。ぼくたちもそう考えるのに慣れている。脳の神経細胞が記憶を保存していると考えるのだ。それは脳の一部に損傷が発生すると、記憶が喪失し、失語症になることからも明らかだと考えがちである。しかしベルクソンはそのような考え方を否定する。「身体が記憶を脳の装置の形で保存する」[3]という考え方は、まったく根拠のないものだと指摘する。

 たしかに脳は記憶を保存しているようにみえる。しかし記憶とは形のないものであり、どこかに保存されているようなものではないのではないかというのだ。たしかに脳に損傷が発生すると、記憶は失われるようにみえる。しかしそれは釘に衣服をかけておいたのと同じことだとベルクソンは主張する。

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「死の直前に一生涯の記憶が想起されるのはなぜか」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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