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強いられた忘却

忘れる[7]

2013年6月20日(木)

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強制される忘却

 これまで四回にわたって、聞く、読む、話す、書くという人間の基本的な言語能力において発生した「物忘れ」の現象を、失語症という障害の観点から考察してきた。失語症では患者は、言葉をまるで奪われるかのように、忘れてしまうのである。これは脳の障害によって発生した忘却だった。

 これにたいして身体の内部からではなく、外部から強制される忘却というものがある。他者にたいして、ある個人の記憶を失わせる忘却であり、あるいは当事者にたいして自己の記憶を喪失させる忘却である。どちらも全体主義の世界で発生した強制的な忘却だった。他者や自己にみずからを「忘れさせる」というのは、はたして可能なのだろうか、それはどのようにして強制され、実行されたのだろうか。

ロシアの秘密警察の夢――忘却の穴

 ドイツ生まれでアメリカに亡命した思想家のハンナ・アレントは、全体主義の「蛮行」を分析しながら、こうした二種類の強制的な忘却のすさまじさをまざまざと描いている。帝政ロシアの時代の秘密警察には、奇妙な夢があったという。それは「忘却の穴」という夢である。

 帝政ロシアの時代の秘密警察は、疑わしい容疑者ごとに特殊な記録方式を案出したという。大きな掛け図の中心にその人物の名前を記載する。その人物と政治的な交渉のあるすべての人の名前を赤い円で囲って記載する。また知人ではあっても、政治的な交渉のないすべての人の名前は、緑の円で囲って記載する。その他にも、その容疑者の友人と交渉のあるすべての人の名前を褐色の円で囲って記載する。そしてこれらのすべての人を抹殺してしまおうとしたのである。そうすれば、その人について記憶している人は地上には存在しなくなるだろう。

 容疑者一人だけを抹殺しても、その思い出は人々のうちに残るだろう。「彼らが後に残す唯一の形見は、彼らを知り、彼らを愛し、彼らと同じ世界に生きていた人々の記憶だけだ。だから死者と同時にその形見をも消し去ることが、全体主義主義の警察のもっとも困難な任務の一つである」[1]。「あたかもそんな人間などかつて存在したこともなかったかのようにすること」[2]、これが全体主義の警察の夢なのである。スターリン時代の「収容所列島」の時代には、共通の記憶をもっている可能性のある地区の住民ごとごっそりと収容所に送られることも多かったのである。

 収容所と監獄が、その夢を実現するための手段だった。戦時中に、あるナチスの強制収容所の所長が、あるフランス人の女性にドイツ人の夫が収容所で死亡したことを教えるという過ちを犯したことがあった。その結果、あらゆる収容所の所長に、収容所で死亡した人間のことをその遺族に知らせてはならないという多数の命令と指示がだされたのだった。

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「強いられた忘却」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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