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「死にいたる病」と自己の忘却

忘れる[10]

2013年7月11日(木)

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自己の忘却

 さて、これまでは重要な忘却の原因として、脳の障害による失語症と、トラウマによる多重人格の形成に基づく健忘を考察してきた。このような外的および内的な理由による忘却は、その主体にとってはある意味では避けられないものである。脳の障害は誰にでも起こりうるものであり、逃げることはできない。多重人格は誰にでも起こりうるものではないが、その主体にとっては幼少の頃からの心的な障害にもかかわらず、生命と自己を維持するために、どうしても必要とされたものだろう。

 しかしこうした不可避的な原因による忘却ではなくても、ぼくたちは自己を忘却することがある。自己を忘却するというのは、記憶を喪失するという意味ではなく、自分の真のありかたを無意識のうちに否定し、そこから逃れようとすることである。このテーマを深く考察したのがキルケゴールの「死にいたる病」である。

「死にいたる病」

 キルケゴールは、「死にいたる病」とは絶望のことであると指摘し、それには三つの場合があることを指摘する。「絶望のうちにあって自己をもっていることを意識しない場合」、「絶望して自己であろうと欲しない場合」、「絶望して自己自身であろうとする場合」[1]である。このどれもがある意味では、自己を忘却することである。というのも、絶望とは、自己について絶望することであり、実はそれは「絶望して自己自身から逃れようとすること」[2]だからである。

 ある娘が男に恋をして、裏切られたとしよう。そのとき彼女は絶望する。彼女が絶望するのは自己についてである。彼に愛されたならば、「宝ともなったたであろうこの自己」[3]が、裏切られて「厭うべき空虚となった」[4]のであり、彼の裏切りによって、この自己が嫌悪すべきものとなった」[5]からである。

 絶望とはつねに自己のうちに、ある分裂をもたらすことである。娘は自分がそのような厭うべき自己であることに耐えられない。そこでもっと別の自己へと自分を仮構したいと考える。彼が愛してくれるような自己であれば嬉しいことだろう。しかし彼女はその彼が愛してくれるような自己ではない。その事実だけが忘れられないのである。彼女はその忘れられない自己に緊縛されている。そこに縛りつけられているだけに、その自己を忘却したいと願う。この苦しい二律背反のうちに自己の忘却と絶望が深まるのである。

 キルケゴールは、これは死にいたる病であると指摘する。しかし絶望者は死ぬことができない。「自己のうちなるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。それは死を死ぬことである」[6]からである。

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「「死にいたる病」と自己の忘却」の著者

中山 元

中山 元(なかやま・げん)

哲学者、翻訳家。

1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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牛島 信 弁護士