バブル崩壊後、日本企業は好むと好まざるとにかかわらず、大きな「変革」を余儀なくされた。金融部門の痛みは、日本企業の成長を支えた間接金融の縮小、株式の持ち合いの解消を迫り、急速に進展したグローバル化は終身雇用、年功序列の終焉をもたらした。その中で問われたのは企業の変革能力である。劇的に変化する外部環境にどう対応し、組織をどう変えていくのか。それに成功した企業もあれば、依然として対応し切れない企業もある。企業が「失われた15年」をどう生きたのか。1991年以降、「日経ビジネス」で取り上げた日本の代表的な企業の記事を「会社の履歴書」として取り上げる。
(文中の肩書き、名称などは掲載当時のままです)
パナソニック(旧松下電器産業)
米ハリウッドの映画・娯楽会社MCMの買収――。パナソニック(旧松下電器産業)の1990年代は、エレクトロニクスというハードだけの会社からソフトまでを囲い込もうとする大きな路線転換から始まった。創業者の松下幸之助氏の死去以降、脱創業家を進めてきた当時の経営陣にとって、この路線転換は幸之助氏の路線からの決別でもあった。
だが、その新路線はあえなく潰える。映画会社との企業風土の違いを乗り越えられず、その後のゲーム機開発も失敗。以降のパナソニックはまた、長い低迷の時期を迎えた。
だが今、パナソニックは息を吹き返した。中村邦夫前社長の改革が奏功し、社内は活性化。中村改革はパナソニックへの社名変更で完結した。新生パナソニック誕生までの軌跡を振り返る。
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1994年10月3日号より
=文中敬称略(「人から始める経営」取材班)
ハードからソフト文化へ
3DO事業で「生みの苦しみ」
3DO事業で「生みの苦しみ」
「この間もアメリカのソフトウエア会社の社長と赤坂、六本木を午前2時まではしごしましてな。とことん飲んで話し合いましたんや」と言うのは、インタラクティブメディア(IM)事業部の事業部長、立花博之(53歳)だ。
人生訓は「迷ったら進め」
あだ名は“いけいけのたっちゃん”
松下がマルチメディアの戦略商品と位置づけ、総力を挙げて拡販中のマルチメディア機「3DO・REAL(リアル)」。この事業を担当する組織がIM事業部だ。
ビデオ事業部で営業部長を長く務め、強気の営業戦略で鳴らしたという立花のあだ名は「いけいけのたっちゃん」。ゴルフのパッティングでショートしたことはない。「迷ったら進め」、これが立花の人生訓だという。
堺の鉄砲商の末裔(まつえい)で、臨済宗の高僧立花大亀は叔父にあたる。ざっくばらんな態度、歯に衣(きぬ)着せぬ物言い、裏表のない性格で、ビデオ事業部時代、決裁が遅い上司に「あんたが決めんから仕事が進まん。よう決めんのやったら、はよ会社、辞めてや」と詰め寄ったという武勇伝の持ち主でもある。
「物言いも行動もストレートオンリー。大ゲンカをしても翌日には、けろっとして、にこにこっと近づいてくるから、たまらん」。25年来の友人という、リビング営業本部商務部PCI(パーソナルコミュニケーション・アンド・インフォメーション)ソフトグループ部長の柏村隆夫(55歳)は苦笑する。
立花が3DO事業にかかわることになった発端は3年前にさかのぼる。
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