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百折不撓:ゼロからチャレンジする強み

――門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし

2010年1月5日(火)

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 新年最初の「源流探訪」ですので、新しく仕事を始める話題を取り上げたいと思います(と言っても、これを打っているのは旧年中の12月25日で、まだバッチリ旧年中の雑務が残りながら書いたものでしたが)。

 だいたい、この連載を書いていて、一番教えられるのは読者から寄せていただく貴重なコメントです。前回の、大宅映子さんとの「常識の源流対論(その2)」への読者コメントでも、こんなご指摘をいただきました。

 ・・・この対談の当のお二人も、銀の匙を銜えて生まれた高額所得者だということに思い至って、コラム後半を読み飛ばしてしまいました・・・

 ははぁん、なるほど。こういう「マスコミの虚像」という「自作のバイアス」で、読者が目を曇らされてしまうなら、せっかく出ている公開情報も見落としてしまうに違いない、これはもったいないことだ・・・筆者として、そう思いました。

 それなら、ではここでもやはり「マスコミが悪い」式の不毛な話ではなく、実際にいくつか、私自身も「楽屋落ち」をお見せすることから今年の「源流探訪」の口火を切ってみよう、そうすることで、同じ私のコラムから、少しでも有用な内容を読者に読み取っていただければ・・・と考えました。

 実際、世の中には本当に「銀の匙」をくわえて生まれる人がおられます。そういう方ともお目にかかりますが、皆さん、皆さんなりの苦労があるようです。例えば皇室なんかに生まれた日には、これは大変でしょう。とても私なぞには務まらん、と思います。

 世間で「ベンチャー」「起業」などが強く称揚されるように、現実に社会経済が動くのは(門地出生など諸々とは別に)、基本的には「その人一代」で積み上げ動かしてきた、タフなベテランが頑張っているからだ、と私は考えます。

 例えば率直に言って、二世三世の議員さんの中には、基本的な社会経験が不足しているのでは・・・? と思わせられる人も見かけます。しかしそこには同時に、一代で叩き上げた苦労人の秘書さんなどのスタッフがついているものです。

 とはいえ、物事のひと通りの虚実を見定めるのにも、人生にして35年40年といった時間を要したような気もしますので、まずはその辺りから、今年のお話を始めようかと思います。

戦後、ゼロからスタートした日本

 私のプライバシーを開陳しても、多くの方に興味があるとは思えません。そこで話の必要上、最低の情報のみ記そうと思います。

 私が育った環境は、経済的にはかなり厳しいものでした。東京オリンピックの年(1964年)に39歳と38歳で結婚した両親は共に大正生まれの戦中派、しかも(『さよなら、サイレント・ネイビー』など、私の書籍の読者方には「またアノ話か・・・」とご指摘を受けそうですが)父はシベリア抑留6年と復員後の寝たきり療養6年で18歳から30歳を棒に振り、母は19歳だった昭和20年(1945年)3月、九州・大牟田の空襲で、防空壕の中に潜んでいたところを重油を詰めた爆弾(「焼夷弾」)に直撃されて、左手と右足が(皮1枚でつながっていたものの)いったん取れかけ、全身4度の「炭化火傷」という状況で崩れた壕の中から掘り出され、それから丸2年の間寝たきりの療養で、何とかこちら側の世界に帰ってきた、という状況でした。

 昭和20~30年代、私の両親は、かたや父親はシベリアから復員して長く療養して30過ぎての社会復帰、かたや全身の3割近くが炭化して、生き残ったのは単なる偶然というところから、まさにゼロからの出発であったという現実です。個人の収入は限りなくゼロに近かったし、そもそも日本全体が焼け跡闇市の状況で「食うや食わず」という状況、ほぼ完全な「皆無」の状況から「リスタート」しなければならなかった。少なくとも私の両親はそういう戦後のスタートでした。

 私の両親の個人史は、各々なりに悲惨なものです。しかしそれが、同時代の中で飛び抜けて悲惨だったなどと言うことはできません。もっと大変な戦後の人生を送られた方もたくさんおられるはずです。ここでは広島や長崎という地名を挙げるだけでも十分でしょう。

 さらに、ここで申し添えておかねばなりません。私の両親のそのまた親の世代は、明治から大正にかけて社会的に一定の成功を収めていました。父方は対英貿易などに従事し、祖父は一橋大学を出て樺太に資産を持ち、父も旧制東京府立高校(現在の首都大学東京教養部)から東京帝大文科に進学しています。母の家は曽祖父が明治初期の外交官だったため、祖父が20世紀初頭にアメリカで草創期の自動車産業(GM=ゼネラル・モーターズ)のエンジニアとなり、第1次世界大戦時、アメリカの技術者として軍用自動車開発に関わっていました。留学前には後輩の山田耕筰氏らと日本の西洋音楽の最初の端緒を作り、20世紀前半は、いまだトヨタが織物会社だった頃、GMやプジョー、ランチアで働きながら川崎重工や三菱、石川島播磨と二重社籍を持って日本に自前で技術移転し、「夢の国産自動車」に向けて新会社「ふそう」の立ち上げなどに尽力した、そんな明治末期から大正・昭和の時期がありました。

コメント22件コメント/レビュー

昨年末に母が亡くなりました。立派な戒名をいただきましたが、その戒名が書かれた位牌に”芯”を入れる難しさをしみじみと感じさせてもらいました。ありがとうございました。(2010/01/06)

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いただいたコメント

昨年末に母が亡くなりました。立派な戒名をいただきましたが、その戒名が書かれた位牌に”芯”を入れる難しさをしみじみと感じさせてもらいました。ありがとうございました。(2010/01/06)

 百折不撓が身に沁みました。 伊東乾氏のコラムには何時も共感させられることが多く、必ず読んでいます。 今回のコラムは氏の生い立ちと来歴とを書かれていますが、なるほど、氏の思考にはこういう来歴があったのかと感銘を受けました。 とりわけ、母上が最後の瞬間に百折不撓を二度書いたとの件には心を打たれました。 こういう母上を持たれたことこそ、まさに銀のさじを銜えて生まれ、育ってきたのだと思わずにいられません。 おん母上の冥福を祈る次第です。(2010/01/06)

 日経新聞の「私の履歴書」に、銀の匙をくわえて生まれた細川元首相が連載していますが、著者と同じく「やりたくない勉強はするな」を貫き通している様子が書かれています。このことを貫くことが出来たことが本質的であるように思います。 細川さんを含めて、ほとんどの人が、「やりたくない勉強」をさせられています。「やることはすべて、好きになって、やりたいと思ってしなさい」 が実現できるようになれば、日本の教育も大きく変わると思います。(2010/01/06)

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三品 和広 神戸大学教授