「伊東 乾の「常識の源流探訪」」

チャタレイ夫人は誰がどう見てもわいせつか?

――「非実在老人」と「非実在青年」の対話(その3)

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2010年8月31日(火)

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 最初に、今回の本題とは少し距離があるのですが、前回(「有害の烙印を押された手塚治虫『セックス・コミック』」)を公開した8月24日、アニメーション監督の今敏さんがお亡くなりになりました。たいへんショックを受けています。全くジャンルは違いますが、意欲的な作家として、特に筒井康隆原作「パプリカ」で強い印象を持っていました。46歳。3カ月前に突然、医師からガン告知されてからを綴った最後のメッセージを拝見しましたが、同世代の一人として、しばしば途中で読み続けられなくなりそうになりました。

 今さんは少年雑誌でマンガ家としてデビューの後、アニメーションの監督に転じて国際的に活躍しました。現在マンガや アニメの話題を考えているわけですが、時代の中で最も強力な表現を展開し、まさに命を賭けて遺作「夢見る機械」に取 り組みながら、その完成を見ることなく早すぎる死を迎えざるを得なかった作家の生き様。深くご冥福をお祈りすると共に、遺志を継がれるご家族またスタッフに心から頭が下がる思いです。

 今回は、表現に命を賭けて取り組む作家の価値観についてお話を考えているのですが、どうしても最初に、哀悼を記したく思った次第です。

 さて、前回にも貴重なコメントをいくつも頂きました。ありがとうございます。たいへん参考になるご意見があり、中でも「誰がどう見ても」有害なエログロ漫画と手塚作品が同等かどうか、ということで考えるべきというコメント、とても大切な部分に焦点を当てて下さっていると思いました。個別のご質問にはツイッターでもご返事するようにしていますが、今回はこの「誰がどう見ても」という「ひと括り」、これを入り口に続きを考えてみたいと思います。

「誰がどう見ても」という死角

 私たち個人が「誰がどう見ても・・・」というのなら、全く構わないのです。「誰がどう見ても、この作品は素晴らしい」という時、「いや、こんなのはつまらない」という人がいても、水掛け論になるだけで白黒ハッキリすることは永久にないでしょう。憲法の言葉で言えば、思想信条の自由ということかもしれません。

 私は音楽を作り、演奏しています。私はある理想像に確信を持って作曲や演奏をしますが、それを「つまらない」「くだらない」あるいは「自分はそのように解釈しない、別の演奏をする」という人がいて当然です。自分なりに判断の理由がありますから、私自身が責任を負うところでは、自分の思うところを貫きますし、ほかの人の仕事に手を突っ込むようなことは考えません。個人主義というのかもしれません。同じベートーヴェンの作品をほかの人が別の解釈で演奏する。もし学生の演奏審査などであれば採点することもあるでしょう。でも大人の独立した音楽家の表現であれば、仮に「間違い」と思うようなものでも、根拠を持ってやっているのかもしれません。誰がどう見ても正しいベートーヴェン像、なんてことを言ったら、芸術音楽の世界は成立しなくなってしまう。ひどく息苦しい閉塞した空気になってしまうことでしょう。

 しかし、問題はそちら側にはありません。今考えているのは国や地方自治体、つまり「役所」「公務員」「これは誰がどう見てもコレコレだ」と、明確な理由を示すことなく規制することの是非です。国民に対する公務員の行動を規制するのが憲法の本質です。「誰がどうみてもコレコレだ」と公務員が結論ありきで決め付けるくらい、憲法訴訟になれば敗訴が決定的なものはありません。先ほどご紹介した、前回頂いたコメントでは「暴力」や「興味本位の性」を気軽に扱う「作品」と「命」を扱う「作品」の違いが分からないわけはないと頂いているのですが、実際どうなのか、細かく考えてみたいと思うのです。

 1970年当時、複数の県で手塚の「命を扱う作品」を「興味本位の性」と区別することなく有害図書として規制した事実に、きちんと両目を開いて、現状を冷静に認識する必要があるはずだ、というのが21世紀の「非実在手塚治虫」というコミックの良心に照らして私たちが考えたい問題です。

 <「暴力」や「興味本位の性」を気軽に扱う作品と「命」を扱う「作品」の違い>こそが、「誰がどう見ても」などという頭ごなしではなく、個人の良心と表現の自由の中で、慎重に斟酌されるべき部分の本質であること。私は一個人の音楽家として、ある種の外道なコミックを容認するつもりは全くありません。しかし、それを成文法に訴えて、官憲の規制として禁圧しよう、なぞとは間違っても考えません。私もまた一表現者、一芸術人にほかなりません。表現の内容にはシビアでシリアスに判断を下します。余談ながら、昔「Bゼミ」という美術学校で平面や立体の美術作品も指導講評させてもらった時期がありますが、撫で斬り的に建設的批判に徹底させてもらったのは、当時のゼミ生の皆さんなど、よくご存じと思います。この<作品の「興味本位」と「命」の違い>が「誰がどう見ても」かどうかという歴史を、簡単に振り返ってみたいと思うのです。

刑法175条と「わいせつ性」

 「非実在青年」の問題を考える時、いつも不思議に思うことがひとつあります。それは戦後、20世紀後半の表現規制問題との著しい断絶、乖離です。そこで戦後の最高裁判例の源流にさかのぼって、まず作家の伊藤整氏と出版社社長が被告人とされた「チャタレイ裁判」を振り返ってみましょう。

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著者プロフィール

伊東 乾(いとう・けん)

伊東 乾

1965年生まれ。作曲家=指揮者。ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督。東京大学大学院物理学専攻修士課程、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授。東京藝術大学、慶応義塾大学SFC研究所などでも後進の指導に当たる。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社)で物理学科時代の同級生でありオウムのサリン散布実行犯となった豊田亨の入信や死刑求刑にいたる過程を克明に描き、第4回開高健ノンフィクション賞受賞。科学技術政策や教育、倫理の問題にも深い関心を寄せる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)『知識・構造化ミッション』(日経BP)『反骨のコツ』(朝日新聞出版)『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新聞出版)など。



このコラムについて

伊東 乾の「常識の源流探訪」

私たちが常識として受け入れていること。その常識はなぜ生まれたのか、生まれる必然があったのかを、ほとんどの人は考えたことがないに違いない。しかし、そのルーツには意外な真実が隠れていることが多い。著名な音楽家として、また東京大学の准教授として世界中に知己の多い伊東乾氏が、その人脈によって得られた価値ある情報を基に、常識の源流を解き明かす。

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