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関東大震災後、八面六臂の活躍をした渋沢栄一

番外編 民間の力とスピードを重視して復興に貢献

2011年3月30日(水)

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 まず、このたびの東日本大震災の被災者の方々に深甚なるお見舞いを、犠牲者やその遺族の方々に心よりのお悔やみを申し上げます。

 今回、大きな被害を受けた気仙沼は父方の故郷であり、父は現在も観光大使を努めています。当然、親戚縁者などが大勢いて、私自身も子供のころ夏休みはいつも帰郷していました。また、つい2カ月前には講演に講師として出向き、市長をはじめとする方々と歓談をしてきたばかりでもありました。

 11日の夜、気仙沼が火で覆われる映像を目にして、心が波立つのを抑えられませんでした。奇跡的にも親戚はみな無事が確認されましたが、寒さと余震が続く中、現地で今も必死に救助活動を行っている方々に衷心より感謝いたします。

 今回はこのような時節柄、戦略の話はいったん中断しまして、今後の日本のあり方の一つの参考になると考えられる、関東大震災における渋沢栄一の活動を番外編として追ってみたいと思います。

あやうく助け出された栄一

 1923年9月1日、関東大震災が日本を襲ったその時、栄一は兜町にある渋沢事務所で執務をしていました。このとき、齢83歳。

 彼のいた事務所は、東京駅の設計などで有名な辰野金吾による設計。頑丈さには定評のあった辰野の建築ですが、さすがの巨大地震に外壁や内装、特にシャンデリアや鏡、雨よけなどが落ち、栄一はあわやという所をお付の者に助けられます。その後、いったん隣にあった第一銀行本店に避難、今の神保町から本郷、駒込を抜けて王子の自宅にたどりつきました。

 このとき栄一が後から悔やんだのが、地震後に起きる火災の危険性に気が付かなかったこと。この事務所には、徳川慶喜公関連の貴重な資料3000点や、228種におよぶ『論語』、明治の元勲とやりとりした手紙などが事務所には置かれていたのですが、震災後の大火事によってすべて灰燼に帰してしまいます。

 帰り着いた栄一に対し、身内は83歳という彼の年齢や、余震や火災などを心配し、「ぜひ故郷の深谷にいったん避難してください」と勧めますが、栄一はこう答えます。

「わたしのような老人は、こういう時にいささかなりと働いてこそ、生きている申し訳がたつようなものだ」

 自分も80を過ぎて、こんな言葉がいえるような人間になりたい、と心底思いますが、実際、ここから八面六臂の栄一の活躍が始まっていきます。内務大臣だった後藤新平からの協力要請を受ける形で、民間組織としては「協調会」と「大震災善後会」の二つを主軸に救済と復興を担っていくのです。

民間の力をうまく活かすことを独断

 まずは、もともと組織のあった「協調会」による救済事業。この「協調会」というのは、折から対立を深めていた労働者と資本家の融和をめざすために1919年に設立されたものです。栄一の立場は副会長。組織運営は、労資の合議が大前提でした。後藤新平の考えは、この資本家と労働者の両者に顔の利く組織を使って、うまく救済事業ができないかというものでした。

 これに対して栄一は「薬の相談が調うたら病人が死んでしまつたと」というのではいけないと他に諮らず、独断で承諾を決めます。そして、この組織を使って「罹災者収容」「炊出し」「災害情報板設置」「掲示板」「臨時病院」など多岐にわたる活動に取り組んでいったのです。

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