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「それでも海のリスクと共に生きる」

壊滅した漁港で感じた「三陸人の強さ」と「都会人の脆さ」

2011年4月3日(日)

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 延々と続く瓦礫の山。地震の前には、壊されたすべてのモノに持ち主がいて、温かい生活の一部を支えていただろう。それが今や、無機質なゴミと化し、その多くは持ち主と再会することなく処分されていく。

 全国でも有数の良港として知られる宮城県の気仙沼。港には多くの船が水揚げのために停泊し、近隣は市場や加工場がひしめき合って建っていた。それがすべて、津波に押し流されて消えた。

 出航を告げる船の汽笛、魚市場に響き渡る威勢のいい競りの声、缶詰工場の機械が刻む小気味良いリズム音――。多くの人々の喧噪に包まれていたその場所は、今、無音の空間が広がっている。

 覚悟はしていた。だが、テレビの映像からは伝わってこなかった凄惨さが、目の前に広がる。何かが違う。現地に赴いて呆然と立ち尽くしながら感じた違和感は、静寂さだった。テレビでは、リポーターが現場を伝える声が流れている。だが、実際の被災の現場は、ここまで無音だったのか…。

 カラカラという音が聞こえた。どこから流されてきたのだろう、ぐちゃぐちゃに壊れたブラインドが、風にふかれて空虚な音を奏でていた。

 「こんにちは」と声をかけられる。働いていた工場を見に来た人だろう。見ず知らずの人でも、みな出会えば「こんにちは」と声をかけ合う。それが春先の山歩きだったら、爽やかな挨拶になる。だが、ここでは違う。「生きていること」をお互いが確認し合う“儀式”に近い。

 つい3カ月前のことだ。「日本の水産業が生き残る道」として、希望に溢れた良港・気仙沼を取材した。その時、目の前に広がる光景など想像だにしなかった。高齢化が進み、斜陽産業となった水産業を、積極的な輸出によって建て直すという漁業関係者の熱い思いを聞いたばかりだった。そのわずか数カ月後、震災が港や街を呑み込んだ。

 震災から2週間が経過した3月26日、私は現地へ向かった。そして、かつて取材した人々を訪ね歩いた。

 彼らはこの事態に遭いながら、前を向いて歩きはじめていた。気仙沼の人々から、リスクと背中合わせで生きて、その全てを受け入れる「強さ」を感じさせられた。その姿に、いつしかリスクから目をそらして生きてきた自分自身に、はたと気付かされる。

「海の恵みで生きる以上、津波リスクは背中合わせ」

 「ここには冷蔵庫があって、向こうに加工場が2つあって…。でも、ほとんどなくなりました」

 彼が指す先には、瓦礫の山があるだけだ。

 こうして気仙沼の港近辺を案内してくれたのは、三陸で最大規模の水産加工会社「阿部長商店」を経営する阿部泰浩社長だ。自宅も津波に襲われて、今は住める状況ではなくなり、妻と子供は避難所で暮らしている。

 何から話を聞けばいいのか、言葉が出てこない。頭の中を、いくつかの質問がよぎる。「地震の時は何をしていたのですか?」「被害額は?」「今後どうやって再建していくのですか?」。しかし、どの質問も、被災者の心の傷をえぐることになる。

 言葉を失ったこちらの様子を察してか、阿部社長が話を切り出してくれた。

 「もう一度、ゼロからスタートしようと思っているんです。海があって魚がいる限り、やり直しはできる」

 関連会社のホテルは残ったものの、気仙沼の本社と工場が壊滅。20億円を投資して昨夏に稼働し始めた大船渡の工場も津波の被害を受けた。南三陸の工場は被害を免れたが、港が壊滅状態で、操業再開のメドは立っていない。巨額の借入金も残っている。

 これだけの被災状況を聞けば、前向きな発言も開き直りなのかとさえ思えてしまう。

 「ウチは今年で創立50年。4月1日に、記念式典をやろうと思っていた矢先です。創業した50年前というのは、チリ地震の津波でオヤジがすべてを失い、裸一貫で立ち上げた時なんです。それから50年、従業員800人を抱えるまでになりました。だから、またやりますよ、次の50年に向けて」

 三陸の街は、これまで何度となく津波に襲われてきた。逃れることのできない災害が繰り返されるのであれば、この地を離れて暮らしたいと思うのが本音ではないか。そう率直に聞いてみたところ、意外な答えが返ってきた。

 「今回の津波で、海は尊い人命や多くの人の財産を奪い取った。確かに、海は怖い。だが、海は今回の損失以上の恩恵を、私たちに与え続けてくれた。海の恩恵にあずかって生きる以上、津波というリスクは、生きることと常に背中合わせに存在する。だから、魚がいる限り私はここに残っていたい」

 もちろん、誰もが阿部社長と同じ考えではないだろう。気仙沼を離れ、別の地域で生きることを選択する人もいるはずだ。だが、翌日、漁業とは関係ない気仙沼の人も「津波のリスクとともに生きる」と口にした。

 翻って、私を含めた多くの都会人は、リスクの正体が分からないまま生きている。そんな人ほど、危機に脆く、立ち直りにくい人間になってしまうのではないか。

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「「それでも海のリスクと共に生きる」」の著者

白壁 達久

白壁 達久(しらかべ・たつひさ)

日経ビジネス記者

2002年関西大学経済学部卒業後、日経BP社に入社。日経ビジネス、日経ビジネスアソシエを経て、2015年から香港支局長としてアジア全体をカバーする。2016年8月から日経ビジネス記者に。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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