「東日本大震災」

鈴木善幸と俊一、津波にのまれた政治家二代記

「それでも、漁業の町を復活させる」

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2011年4月12日(火)

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 「オヤジもこれを見たんだろうな」

 瓦礫と泥の山と化した岩手県宮古市田老(たろう)地区。防潮堤の上に立った鈴木俊一氏はふと漏らした。

 田老地区には“万里の長城”との異名を持つスーパー防潮堤があった。高さ10メートル、総延長も2500メートルを超える巨大防潮堤。だが、37.9メートルを記録した大津波は二重に張り巡らされた万里の長城を軽々と乗り越えた。今、田老の町に残っているのは家屋の残骸ばかり。

 「この60年で積み上げたものがすべてなくなっちゃったね」

 そう言うと、俊一氏は呆然と町並みを眺めた。

壊滅状態の音部漁港を呆然と見つめる鈴木俊一・元代議士(写真:宮島康彦)
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大津波は10メートルの防潮堤を軽々と乗り越えた(写真:宮島康彦)
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政治家二代、津波に翻弄される

 鈴木俊一氏は自民党の元代議士。第4代の環境大臣や自民党の要職を歴任したが、民主党が躍進した2009年の衆院議員選挙で落選し、今は浪人中の身だ。選挙区は岩手2区、宮古や山田、田老、田野畑など壊滅的な打撃を受けた三陸沿岸が主な地盤である。

 瓦礫の山と化した故郷の漁村――。同じ光景を俊一氏の父親も目の当たりにしている。

 昭和8(1933)年3月3日、俊一氏の父親、元首相の鈴木善幸氏は故郷の山田町にいた。当時22歳だった善幸氏は、農水省水産講習所(現東京海洋大学)に在学していたが、肋膜炎を患い、郷里で療養していた。その時、三陸沖で地震が発生、大津波が山田町を飲み込んだ。

 三陸大津波に遭遇した善幸氏は、沿岸各地を見て回った。漁船は丘に押し上げられ、親を亡くした子どもが途方に暮れていた。その当時、三陸沿岸の漁村は昭和初期の恐慌と凶作で塗炭の苦しみを舐めていた。それに追い打ちをかける大津波。人々の生活は困窮を極めた。

 その惨状をまざまざと見せつけられた善幸氏は、政治の世界を志し、昭和22(1947)年の第1回総選挙で当選を果たした。36歳の時のことだ。そして、善幸氏は水産業と三陸沿岸の振興に政治生命を捧げていく。

三陸振興にかけた鈴木善幸・元首相

 昭和25(1950)年に議員立法の第1号として漁港法を制定、その後の漁港整備の基盤を築いた。昭和45(1970)年には父親を海難事故でなくした子供たちを支援する財団法人漁船海難遺児育英会を発足、30年にわたって理事長を務めた。その後も、仙台までと思われていた東北新幹線を盛岡まで延伸することに尽力、昭和59(1984)年に開通した三陸鉄道でも強い政治力を発揮している。

 「港ができると決まった時は、町中で提灯行列を繰り出してね。私は子どもだったけど、大喜びしたのを覚えていますよ」

壊滅的な打撃を受けた田老漁港(写真:宮島康彦)
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 壊滅状態にある田老町漁業協同組合の小林昭榮・代表理事組合長が振り返るように、田老漁港は昭和26(1951)年、漁港法制定の翌年に整備された。田老漁港に限らず、三陸各地の漁港は鈴木善幸氏が整備したと言っても過言ではない。

 同じ政治家人生を、俊一氏も辿っている。

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著者プロフィール

篠原 匡(しのはら・ただし)

昭和50年東京都生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、日経BP社に入社。以後、主に「日経ビジネス」の記者として活動している。趣味は競艇と出張、庭いじり。著書に『腹八分の資本主義』(新潮社)、『おまんのモノサシ持ちや』(日本経済新聞出版社)がある。



このコラムについて

東日本大震災

3月11日午後、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の極めて強い地震が起き、宮城県北部で震度7の烈震を観測。過去最大規模の地震災害となった。大きな被害の出た東北、関東地方などの被災地ではライフラインが破壊され、都市機能が回復するまでには長い時間がかかる見通しだ。

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