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第5話「いないな。俺の後継など、ウチにはいやしない」

2011年5月9日(月)

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 私の法律事務所には、いろいろな人がやってくる。もちろん、クールビズを心がけている人も多い。背広に糊のきいた白いワイシャツだがネクタイはしめていない、という姿も、見慣れてみれば、そういう服装もあるというだけのことになる。それは私の個人的な好みではない。しかし、この私にしたところで、立場が異なれば、たとえばクールビズをしてみせなければならない立場にあったり、そういう立場をとっていることを明確にしなければならない組織に所属している人間であったりすれば、個人の趣味など、どこかに吹き飛んでしまうにちがいない。仕事場の服装というのは、そういうものだ。

 クールビズがはじまるよりも以前から、カジュアルな衣料品を売っている依頼者は、会社の商品を身に着けている。歩きながら広告もしているということなのだろう。なによりも、自分がなにをしている者なのか、なにをしなければならない者なのか、四六時中、肌をとおしてわかる。ネクタイなどは、どこにも存在しない。

 弁護士である私も、いつかはネクタイを外す日がくるのかもしれないと思う。なに、あの同性愛で刑務所にいれられたイギリス人がいまのネクタイを考えついたのが19世紀の終わりころのこと。そのうちに消えてしまっても不思議はないのだ。現に、その男、一世を風靡したオスカー・ワイルドの名前なぞ、もう知らない人のほうが多いのではないか。

 だが、あの日のあの男の場合は、そんな話ではなかった。だいいち、私のところには、まだズボンに大きな破れ目のある客が来たりはしない。

 秘書から彼がやってきたと聞いた。受付の女性からは秘書へ電話で来訪をつたえる際、「変な方です。とっても変な服を着た方です。ほんとうに先生にご用事なのでしょうか」と注釈がはいっていたということだった。

 私は笑いながら自分の部屋のロッカーを開き、鏡をのぞきながら頭にブラシをかけ、背広の上着を取りだした。

「殉死する」

 あの男は、私が部屋にはいっていくなり、そう一言だけいった。

 この男は本気なのだな、そう感じた。袖をとおしただけのカーデガンにも見覚えがあった。若いころ、ある女性に贈られたというハロッズ製のカシミアのカーデガンだった。そのとき、水色はその女性の好みの色でね、とあの男自らが照れ隠しに唇をなめながら講釈してくれた。あせた水色が流れた歳月をしめしている。いくつもの大きな破れ目の目立つズボンは、黒地に白いピン・ストライプの柄からして背広のズボンのようだった。

 靴は? 靴は黒のひも付きをはいていたが、なんと靴下をはいていなかった。たしかに「変」だった。だが、専用の車に乗ってきたのだろう。社長室から地下の駐車場に直行する人間は、他人の目など気にする必要などないのだ。

 私は、ことさらにあの男の服装を無視して、
 「だが、お前個人はそれでいいとして、会社は社長がいないと困る。そいつにカタをつけておくのは、会社の社長という立場に就いてしまったお前の責任だ」
 といった。
 「わかっている」

 それだけだった。あとは黙っている。視線は私の顔のほうを向いているが、そのまま私の顔を素どおしに貫いてでもいるように、部屋の壁のあたりにあった。

 沈黙が続いた。

 私は、目の前の男が死ぬのだということを考えていた。日本では1年に3万人以上の人間が自殺するという。しかし、彼は私の親しい友人だった。もう二人とも若くない。私たちの間には、たくさんの時間が流れたのだ。ほとんどは別べつの時間だったが、いっしょに時をすごしたこともあった。若いころ、まだ二人が社会に出る前のことだった。その友人がみずから命を絶とうとしていた。

 「お前が来いといったから、あわててやってきた。ごらんのとおりだ。」

 そう、すこし苛だった声を出した。そうだった。確かに私が呼んだのだった。彼は、自分の部屋から飛びだしてきたのだ。カーデガンはいつも社長室で身につけているのだろう。ではズボンはどうして?

 私は、彼が部屋を出るまでに椅子やテーブルにけつまずいたことを、厳粛に想像した。

 「俺をあいつらが解任するなんてこと、できはしない」

 ついさっき、そう電話ごしにいったあの男の言葉が頼りだった。私は、友人を死なせたくなかった。そのためなら、どんな犠牲をはらってもよい。そう思いつめていた。「友だち甲斐」という言葉が私の頭のなかを去来した。

 「ああ、なんだかむしょうにお前の顔を見たくなってな」

 私のいったことが彼には意外だったのだろう。あの男の顔に微笑が浮かんだ。

(ああ、40年前の微笑みそのままだ)

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