「伊東 乾の「常識の源流探訪」」

「年賀状」はどこから来たか?

初詣の源流探訪、その3

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2012年1月17日(火)

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 少し前、意外に思った事がありました。ある若い学生が「旧かな遣い」というものを大昔のものと思っていたんですね。その人は古文などで習う「旧かな」を江戸時代「あたり」のものと考えていた、近代以降は使われなくなったものだと認識していた。

 まあ確かに、明治以降、日本語は大きく変化しました。「なになにで候」なんて日本語は、元来は武家の言葉で、幕藩体制までの公文書では一貫してこれが使われている。ところが明治以降、新政府はこれを基本的に公文書では廃止してしまい、逆に士族を中心に私信などに「そうろう文」が残っていたりする。

 しかし公のシステム、例えば「学制」が施行され義務教育が実施されると、それに入ってこない江戸時代以前の日本語は、必然的に影が薄くなってゆきます。

 ぎゃくに、明治以降の小学校の「読本」に使われていた仮名遣いなどは、1945年までは世の中で普通に通用していました。「・・・でせう」(・・・でしょう)とか「てふてふ」(蝶々)といった文字の遣い方はごく当たり前のものだった。

「ウヰスキー」じゃないと不味そう

 まったくの余談ですが、私の両親は父母ともに大正年間(1912−1926)生まれで、当然ながら1945年以前に学校に通っており、旧かなで最初の教育を受けました。敗戦後のさまざまな改革の中で「新かな使い」も遣うことを覚えさせられましたので、二つの日本語を使い分けていました。

 公のものは新かなで記さなければなりません。しかし子供の頃から使ってきた「自分自身の思考をつづる文字」は旧かなです。子供の頃、帰宅すると母が留守で、おやつと一緒にメモが置いてあったりして

「寒かったでせう」

なんて旧かな遣いの混ざった文字を普通に見てきたので、私自身もどこか感覚が狂っていて、仮名はやはり旧かなでないと「本当のニュアンスは伝わらない」と思っている所が、実はあります。

 先日、家の奥のほうを整理していて、父親が遺した仕事のメモやノートが出てきましたが、当然ながら全部旧仮名でした。父の場合、戦争が終わったときには満州にいて、シベリア抑留後もどってきてからの「戦後日本」なので、急かなの傾向はより強かったかもしれません。

 また、やはり大正生まれの伯父は

「『ウイスキー』なんて水で薄めてありそうで不味そうで見れたもんじゃない。やはりウヰスキーはウヰスキーじゃなきゃ」なんて事をよく言っていました。

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著者プロフィール

伊東 乾(いとう・けん)

伊東 乾

1965年生まれ。作曲家=指揮者。ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督。東京大学大学院物理学専攻修士課程、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授。東京藝術大学、慶応義塾大学SFC研究所などでも後進の指導に当たる。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社)で物理学科時代の同級生でありオウムのサリン散布実行犯となった豊田亨の入信や死刑求刑にいたる過程を克明に描き、第4回開高健ノンフィクション賞受賞。科学技術政策や教育、倫理の問題にも深い関心を寄せる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)『知識・構造化ミッション』(日経BP)『反骨のコツ』(朝日新聞出版)『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新聞出版)など。



このコラムについて

伊東 乾の「常識の源流探訪」

私たちが常識として受け入れていること。その常識はなぜ生まれたのか、生まれる必然があったのかを、ほとんどの人は考えたことがないに違いない。しかし、そのルーツには意外な真実が隠れていることが多い。著名な音楽家として、また東京大学の准教授として世界中に知己の多い伊東乾氏が、その人脈によって得られた価値ある情報を基に、常識の源流を解き明かす。

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