前回、古代日本各地の国府では、元旦の朝拝で、誰もいない「お宮」という建物そのものが礼拝の対象になる、という話を書いたところ、大変興味深いコメントを頂きました。一部を引用してみます。
「外から建物に対して拍手を打ったり頭を下げたりお金を払ったりしている」人なんてどこにいるのだろうか? 神社の奥に鎮座しているであろう何ものかに頭を下げていることは小学生でも理解しているのでは?
そうそう、そうなんです、21世紀の日本人なら、小学生でも理解していることがある。逆に、21世紀の私たち大人は、奈良時代の日本人がどういう信仰の心的姿勢を持っていたか、といったことは、容易に視野からはずしてしまう、そのあたりからお話を始めたいと思います。
上のコメントには「小学生でも」持っている、大変近代的で科学的な考え方が前提となっています。そもそも、まず神社の奥に何かが鎮座している、という整合した見方を、前回、大津透さんの「古代の天皇制」で引いてきた、奈良時代に朝拝を行っていた人々が共有していたか、というと・・・定かでない、というより、多分そういうことはなかったと思います。
誤解のないよう補足しますが、前回も古文書を引用しつつ記しているのは、まずもって古代人の儀礼のあり方です。その遺制が現代にも伝わる、という話をしているわけですが、古代の行事を現代人の常識で理解しようとすると、色々違うことになってしまいます。
イワシの頭も信心、なんていいますね。信心と言う言葉は、今日軽く考えられやすいように思っています。しかし同時に変に迷信深い21世紀日本人の現実の姿があるのは、テレビの番組欄など一瞥しても、いろいろ状況証拠が見受けられます。
その周辺を注意深く考えてゆくと、私たち自身の中に巣食っている、古代人そのままといった心の動きも、見えてくるように思うわけです。
お神輿を「足蹴」にするか?
今日、私たちは「建築物」は建物であって、それ以上でも以下でもない、と思っています。極端なシックハウス、あるいはマンションの骨材が汚染されていて、などという場合には、その建物を恐れるということはありえても、建物自体を畏れかしこむ、礼拝や信仰の対象とする、なんてことはない、そう普通は思います。
・・・そうなんでしょうか? 微妙な例を考えて見ましょう。
例えば、神社の「お神輿」、あれは何か?というと、神様が引っ越しするんですね。その「遷宮」のときの神様の乗り物、「お輿」ですが、なにぶん神様ですから「お」「み」「家」(お宮)と同じように「御」「御」「輿」(おみこし)と、二重に「御」がついている。
この「お神輿」、お宮のミニチュア版といってもいいものと思いますが、これは「その中におられる神様」を信仰するもので、それ自体は大事に考えないものと言えるでしょうか?
例えば、どこかの村のお祭りで、休み時間にお神輿がおいてあったとして、不良少年などがやってきて、それに不敬な行い、例えば足蹴にするとか、そういうことがあったら、多くの日本人はどういう反応をするでしょう?
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