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第16話「馬鹿な。会社ってのは、社員には敵でしかないのか?」

2012年4月16日(月)

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 門前仲町にある富岡八幡宮は江戸時代のにおいがする。

 大きな鳥居をくぐると、直ぐ左に男が颯爽と立っている。伊能忠敬である。商人として50歳までの間にひとかどの成功をおさめた男が、55歳になってから数えで74歳で死ぬまでの間、全国を測量してまわった。200年前、忠敬は日本中を自分の足で踏破したのだ。この金属の顔と体は、そんな人生を送った男の気迫と気概にあふれていて、見る者を圧倒せずにはおかない。伊能忠敬は、かつて確かに存在し、生きたのだ。

 古堂房恵のマンションは、この富岡八幡宮のごく近くにある。風呂場の窓からは伊能忠敬の後姿を見おろすことができた。
 その小さなマンションの中に、今日もあの男の姿があった。
 狭いリビングの壁に背中をつけて、針箱のおかれた和室用の脚の短いテーブルと自分の体との間の狭い空間で、あの男がしきりに灰色の革手袋をいじっていた。濃い茶色のテーブルには緑色のプラスティックでできた古い針箱が置かれている。

 「器用なのねぇ」
 房恵が感嘆の声をあげた。
 あの男は、左の手袋の手を差し入れる部分あたりを針と糸で繕っているのだ。

 「ああ、僕の祖母はいつも針と糸をもって裁縫していた。幼かった僕は祖母の横にくっついていたんだよ。針の目が見えない祖母のために糸を通してやったものさ。子供心に、どうしてこんな簡単なことができないのかって、とても不思議な気がした。
だから、小学校のとき、家庭科の成績はいつも5だったのさ。刺繍なんてとても上手だったんだよ。
 学生時代には、友だちのズボンの裾あげまでしてやった。知ってるだろう、纏り絎(まつりぐけ)、っていうの」
 「えっ? ああ、まつり縫いのことね。そんなことまでしてらしたの。
 すごーい。
 そういえば、ワイシャツのボタンなんてお茶の子歳々って感じですものね」
 「ああ、イタリア製の洋服はボタンの付け方が粗雑だからね。日本人の手じゃないと駄目なんだな」

 「でも、革の手袋まで。
いったいどうしたの?」
 「ごらんのとおりさ。手を入れるところが、下から2センチのところで横にざっくりと裂けてしまっている。5センチってとこか」
 手を休めて、針と糸をつけたままの手袋をテーブル越しに房恵のほうへ差し出した。

 「ひどい破れようね。
どうしたの?」
 「どうもこうもないさ。僕が力任せに引っ張ったら、情けないくらい簡単に革の部分が真横一文字に破れてしまった」
 「どうしてそんなことしたの?」
 「僕が僕だからさ。なにかに腹が立ったんじゃないかな。かならずしも手袋が具合が悪かったっていうのじゃない。
いや、僕のせいだな。手袋には気の毒な話だ。変なオーナーを持ったってことだ」
 あの男が笑いながら説明した。

 「もう駄目なんじゃないの?」
 「そうだね。
 でも、こいつが不憫で、とても棄てられない。
 『こがねのぼたん、惜し』さ、なにせ『身に添ふ扣鈕』だからね」

 「それ、森鷗外の『うた日記』にある「扣鈕(ぼたん)」ね。

『南山(なんざん)の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕(ぼたん)惜し』

 私、初めてこの歌を読んだとき、鷗外って変なことを言う人って思った。だって、日露戦争のときの話なんでしょう。たくさんの兵士が死んだと歌っているのに、落っことしたカフスボタンが惜しいだなんて」

 「ああ、そうだ、身勝手な男だ。ドイツから自分だけを頼ってやってきた女を捨てた男だからね。
 女は、ブレーマーハーフェンの街の港で、独り、船に乗った、見知らぬ地の果てで待っている男に再び会って、男とその国でいっしょに暮らし、子どもを育てるためにだ。お腹には子どもがいた。いや、誰もそんなこといってない、僕の妄想だがね。
 はるばるアフリカ大陸の先端、喜望峰を回って、インド洋を越え、マラッカ海峡を回って、香港に寄って、やっと横浜に着いたのだ。その間、夏の盛りの赤道を越えること二度、合計50日の船の上の暮らしがあった。間もなく独りが三人になる。彼女にとって心躍る一人旅だったことだろう。
 でも、ひと月だけ日本にいて、また独りでドイツに帰った」

 「かわいそうなエリス」
 「僕はこの手袋を、自分が墓場に放り込まれる前に買っていたんだ。まだ、まさか自分が営業第三部送りになるなんて思っていなかったころだった。上機嫌で、銀座の並木通りと花椿通りの角にある行きつけの小さな店で買った。

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