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第23話「あなたと会えなくなってしまうのは悲しい。でも時間がないの」

2012年12月3日(月)

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 「私、奈良へ帰ろうかと思っているの」

 あの男が、門前仲町の小さなマンションに出入りするようになって、もう8年の年月が経っていた。東京の乾いた寒さが、また巡ってきている。59歳だったあの男は67歳に、43歳だった古堂房恵は51歳になっていた。

 一人用の狭いベッドでの行為が終わると、当然のようにあの男が先にシャワーを浴びる。浴び終わると、いつもの儀式が始まる。

 先ず、バラの香りのする厚手の白いバスローブをまとうと、裸の全身を濡れたまますっぽりと包みこむ。入れ替わりに、房恵が浴室に飛び込む。扉を閉めていても、勢いのよい水音は外へもれださずにはいない。あの男のほうはといえば、両手でバスローブのひもを器用に結びながら、台所へ大またで歩いて行く。冷蔵庫を開けて左の裏扉に入っているペットボトルを取り出すのだ。ゲロルシュタイナーという名のドイツの天然炭酸水が、決まった場所に置かれている。ペットボトルを左手に握って後を振り向くと、右手を思い切り上に伸ばして棚から大ぶりのグラスを取り出す。蓋をひねりとって、勢いよく注ぐと泡が溢れるようにはじけるが、すぐにおさまってしまう。「人生かくの如し」。毎度、あの男はそうつぶやく。

 グラスをつかんで戻ると、小さな紅いテーブルの前にどっかりと座りこんで、一口すする。すぐに房恵が狭い浴室から出てくる。出てくれば、「あー、さっぱりした」といって、ぴったりと隣にくっついて座わる。すぐに、「いい?」と一声かけて、グラスに残った炭酸水を口にふくむ。

 だが、この夜は、ほんの少し違った。房恵は大きなブルーのバスタオルを使いながら、なんでもないことでも話すような調子で、立ったまま、あの男の後ろから声をかけたのだ。

 「父がもう独りでは暮らせそうにないみたい。
 だって、もう87歳ですものね。今まで放り出していて、私、悪い娘」

 「え、君にはお兄さんがいたんじゃなかったっけ。確か、奈良に住んでいたろう」

 「ええ。でも、もう住んでいない。兄がいたけれど、死んでしまったから」

 あの男がグラスを房恵に差し出す。

 「そうだった、そうだった。
 君のお兄さんは、気の毒なことだったね。まだお若かったのに。
 おいくつだったっけ?」

 グラスの炭酸水を口いっぱいにふくんだ房恵が、飲み込む動作に一瞬の時間をとられる。

 「48よ。馬鹿な男」

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