房恵の携帯が、机の上でブルンと震えた。
画面に目をやると、「横須賀(ホテル・マルメゾン)」とある。
はっとした。ホテル・マルメゾンの横須賀副支配人から房恵に電話がかかってくる理由は一つしかない。ホテルがあの男に連絡を取ろうとして、どうしても連絡がつかないということなのだ。
ホテル・マルメゾンは、あの男が日ごろ利用している都心の高台にあるホテルだ。週に何度か、昼の時間を独りきりで過ごす。ホテルの部屋に滞在している間、あの男は決して存在していないことになっている。誰から連絡が来ても、あの男がそこにいるとも、そこにいたとも教えない。初めから、そういう約束がしてあるのだ。
あの男が直接ホテルに連絡し、ホテルは携帯の番号で識別する。その番号だけに、必要な限度で、しかし懇切丁寧に対応する。もちろん、フロントでは声だけでもあの男とわかる。それほどにあの男は、ホテル・マルメゾンで知られている。数多くのレストランでも宴会場でも、常連の客だ。しかし、あの目的の時には、決して存在していない。
そうやってホテル・マルメゾンの部屋を利用するようになった時、あの男が房恵に話してくれたことがあった。
「いや、超一流ホテルってのは秘密を守ることにかけては、なんともすごいんだよ。
友だちの蛭田なんか、プロモントリー・ホテルで、
『僕が使ったなんて、絶対に誰にも言うなよ。僕自身がきいても答えないでくれ』
と言っておいた。ところが、部屋に忘れ物をしてチェック・アウトしてしまったって言うんだ。で、探してくれるように後からフロントに頼んだら、なんと断られたそうだ。顔見知りの担当の女性から、『申し訳ありませんが、おっしゃられる日時にはご滞在になっていらっしゃいませんので、探しても無駄です』と言われたそうだ。
『まったく、参ったよ。大事な手帳だったんだ。
でも、考えようだなと思った。ありがたいことだよ。だって、女房に疑われても、じゃ、いっしょにホテルに行ってフロントでたずねてみようって言えば済むってことだからな。僕をなじみの客だと扱ってくれた上で、その僕から面と向かってたずねられても、あそこなら『いえ、その日にはお泊りになっていません』と答えてくれるってことだ。頼りになるってことさ」
房恵だけが、緊急で、生死にかかわるような止むを得ない時にだけという約束で、携帯の番号をホテルに登録してある。ホテル側からの連絡は、副支配人の横須賀だけから来ることになっていた。横須賀が休みの日だけ、代わりの役を平田昭夫という同じ副支配人が務める。
こうしてあの男がホテル・マルメゾンを使うようになって何年にもなる。しかし、これまで横須賀からの連絡が房恵の携帯にはいったことなど、ただの一度もなかったのだ。
その横須賀からの、房恵の携帯への連絡だった。なにか、あの男の身に異変が起きたことは間違いなかった。それも、あの男が自分の力ではどうにもできないようなことが。
「古堂様ですね。ホテル・マルメゾンの横須賀でございます。おわかりいただけますね?」
房恵が、「はい」と答えると、横須賀は、それ以上を言わせず、急きこむように言葉を続けた。
「2307号室のお客さま、ただいま救急車をお呼びいたしました」
「いったいなにが?」
とたずねた房恵に、横須賀は、
「部屋で倒れていらっしゃるのを発見しましたので、すぐに救急車を呼びました。ご本人様に意識がないので、古堂様にお電話いたしました」
と、ごく簡潔に用件だけを答えた。
房恵は、急いで、あらかじめ主治医の寺田医師から言われている病院の名前を告げた。すると横須賀は、
「もう救急車がホテルへ着くと存じます。こちらにこられるより、その病院に直接行かれたほうが良いかと存じます」
とまで言ってくれた。
すぐに会社の車に飛び乗って病院の名を告げると、寺田医師に電話した。
おそらく、心筋梗塞だろう、とのことだった。「すぐに私も病院に行きます。よく知った病院ですから」と言う寺田と病院で落ち合うことを約束した。
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