山口昌男さんをお送りする、というとき、どうしても避けて通れないポイントがひとつあります。考えてみると、あれから25年が経過していた・・・あのとき、つまり、中沢新一氏の助教授採用人事をめぐって、東京大学教養学部が大きくゆれた1987-88年の「東大駒場騒動」のとき、私は学部学生として、不思議な場所からこの騒動を見ることになったのでした。不思議な場所、つまり都下府中市内・山口昌男邸の書庫から。当時の経緯、そしてその後の「もし」を含め、25年前の一学生が振り返る東大駒場騒動と大学・大学人の「責任」について、長年思ってきた事を少し記したいと思います。
府中から見た「東大駒場騒動」
1986年の暮れ、翌年5月の学園祭で作曲家の三善晃氏との対談に出ていただくべく山口さんにご連絡し、手に入る全著作に目を通してご自宅におうかがいした ところ「書庫お出入り自由」と言っていただいて、2カ月に1度くらいの頻度でしたが、私は府中の山口邸に遊びに行くようになりました。そもそも「仲」を取り 持って下さったのが奥様だったので、山口さんご不在のときも、書庫に一人でほったらかしにしていただいたりして、今思い返しても人生の贅沢というべき時間を過ごさせていただきました。
最初に遊びに行ったとき、一番に目に飛び込んできたのが白土三平「カムイ伝」全巻が棚の上のほうにずらっと並んでいる光景でした。予想可能とはいえ、やはり意外だったので鮮烈に記憶しています。その足元に南方熊楠関連の資料ばかり入ったダンボール箱もありました。1度、ご夫婦ともご不在の折があり、下の息子さんと1、2時間お話したこともよく覚えています。あれ以来四半世紀失礼したままになっていますが、思い返すと一つひとつ、かけがえのない大事な記憶です。
あれは1987年の秋ごろでした。やはり、何ということなしにふらりと山口邸に遊びに行って、珍しく在宅の山口さんとお話していると、奥様が「パパ、ニシベさんから」と電話を取り次がれました。会話を聞こうというつもりはなかったけれど、目の前で喋っているので、聞こうと思わなくても耳に入ってきてしまいます。「ミタ」とか「サトウ」という固有名詞が聞き取れました。「ニシベ」だけならよくわからないけれど、「ミタ」「サトウ」まで並べられてしまうと、当時在学していた私にはいやでもそれが東京大学教養学部の何かであることはおのずと知れてしまいます。
それどころか、その年の夏、私自身「ミタゼミ」つまり社会学の見田宗介教授の、いまや伝説となっている合宿ゼミナールに参加して、人生が変わるような大きな経験をしたばかりでした。「ミタ」と聞いた次の瞬間、見田先生を想起したし、話の具合から、何事かでもめているらしいことが知れました。
電話が終わると、山口さんは、目の前でしている電話なので声が聞こえていることを前提で「まったくあの見田宗介っていうのは、こまっちゃうんだよな」と世間話風に愚痴をこぼされました。ちなみにそこでは「人事案件」という話も、そこで考査に掛かっているのが中沢新一氏であるというようなことも、一切口にされませんでした。当然といえば当然ですが、そういう配慮、ご分別はきっちりある山口さんでした。人事案件などというのは、不用意に表に出ると、その瞬間にだめになるものです。
ちょっと,いやかなり感傷的になっていませんか?私の読解力の問題かもしれないが,どうしても一般化して読めない。特定の個人を礼賛したり批判したりしているようにしか読めない。我々読者に何を訴えたいのだろうか? あと2回のコラムとのこと。以前のように,もっと内容のあるコラムで締められることを望む。(2013/03/29)