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能力が「自己責任」なら、成果主義は理にかなう

「不公平感」を経済学から考える

2013年5月8日(水)

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 「経済学者というのは効率にしか興味がない冷たい人達である」と一般には思われている――。…というのが経済学者側の被害者気取りなのか、実際の大方の見方なのかは定かでない。だが、印刷物やインターネット上で書かれていることを見る限りでは、「どうやらそう思われているらしい」ということを話の端緒にしてもまあ許されるかと思う。

 経済学者に言わせれば、それは「信仰」を持ち出した議論には加わらないという「自己抑制」ということになるだろう。だが、資源配分の「効率性」=「交換によって互いに得できる機会を利用し尽くしていること」それ自体は、誰がどれだけ得するべきかについて何も語っていない。

 例えば、ある1人が資源を総取りした場合でも、そこから交換によって互いに得できる余地がないのだから、定義上は「効率的」ということになってしまう。したがって、我々が漠然と「常識」として受け入れているものがいかなる「信仰」に基づいているのかを明らかにし、その論理的な関係と両立可能性を調べ、議論の共有を助けることが求められる。現代の厚生経済学の職分はまさにそれだ。

 そこで本稿では、厚生経済学が公平性の概念についてどう整理しているかを紹介したい。もちろん、何が「公平」かというのはつまるところ「納得」の問題なので、「正解」あるいは「経済学的に正しい」公平性概念などというものはあり得ない。筆者もみんなが納得しながら現場で使える公平性の指標を提供しようとしているのではないし、それはそもそも無理な話だ。もはや陳腐な表現だが「考えるヒント」になれば幸いだ、という程度である。

「等しく幸せ」をどう判断する?

 ある事態が公平か否かというのは、「誰が何に対して責任を負うか」に依存する。例えば、各人が交換前の持ち分に対して全面的に責任を負うと考えるならば,各人が自分の持ち分を所得の再分配なしに「自由」に処分できる市場経済は「公平」ということになろう。

 一方、手持ちの資源というのは天から降ってきたもので誰のおかげでもないと考えるなら、誰も個人の持ち分に責任を負うことはなく、個人の持ち分は資源配分に際して倫理的に意味のある情報ではないことになる。現実は両者の中間にあると考えるべきだろうが、本稿の性質上、ここでは後者の立場からアプローチしてみよう。

 まず考えられることは、資源をみんな平等に配分することだろう。だが、これは好みや価値観の多様な社会において賢いとは言えない。魚よりも肉が相対的に好きな人も、肉が魚よりも相対的に好きな人もみんな同じ量の肉と魚を食えというのではつまらない。効率的ならばなんでもいいという立場は乗り越えたいわけだが、かといって再配分によって全員が得できるのにそれを許さないというのも残念なことである。

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「能力が「自己責任」なら、成果主義は理にかなう」の著者

林 貴志

林 貴志(はやし・たかし)

英グラスゴー大学教授

1996年京都大学経済学部中退、98年大阪大学経済学修士、2004年ロチェスター大学経済学博士課程修了(Ph.D.)。米テキサス大学オースティン校助教授を経て現職。専門は意思決定理論、厚生経済学。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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高坂 晶子 日本総合研究所調査部主任研究員