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第13章 鯨の葬式(3)

2007年6月18日(月)

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 同じ頃、十文字一(ともんじはじめ)は、「えちぜん鉄道」の車中にいた。

 日中の最高気温が35.7度という猛暑の日であった。JR福井駅の裏手から出る小さな私鉄は、永平寺などを経て勝山市まで行く西方向の路線と、東尋坊方面へ行く北方向の路線がある。

 北方向の路線は、福井駅を出ると、低い家並みの住宅地をしばらく走り、7つ目の中角(なかつの)駅の手前で、1級河川・九頭竜(くずりゅう)川を渡る。中角駅を過ぎると、左右に急速に田畑が広がり、見通しのよい田園風景になる。右手には、石川県との県境の山々が青い影となって連なっている。

 1両きりのワンマンカーで、乗客は観光客、地元の人々、詰襟姿の高校生など。

 「十文字一です。よろしくお願いします」

 タスキを胸にかけた十文字は、列車の中で誰彼かまわず握手をして歩いていた。

 「越前出身の十文字が帰って参りました。よろしくお願いします」

 時おり、長い指で前髪をかき上げ、乗客たちに握手を求めて歩く。

 「参議院議員選挙、比例区は、自民党の十文字をよろしくお願いします」

 ごま塩頭の労働者風の初老の男性が、わけもわからずに、白い手袋をした十文字に手を握られる。選挙権がない制服姿の女子高生が、面白がって握手する。

 「比例区の十文字です、よろしくお願いします」

 カメラを持った運動員が、握手をする十文字の姿を撮影していた。

 懸命に握手をして歩く十文字を、携帯電話のカメラで撮影している人もいる。

 「比例区は自民党の十文字、十文字をよろしくお願いします」

 孫2人を連れた老婆の手を両手で握り、面長の顔に作り笑いを浮かべる。

 車両内の全員と握手をした十文字は、手を振りながら、次の停車駅で降りた。

 待合室があるだけの無人駅で、運動員が自転車を用意して待っていた。

 十文字はうなずき、自転車に跨る。

 駅を出ると住宅地で、その先に穂を青々とつけた「コシヒカリ」と「花越前」の水田が広がっていた。その先は、県道5号線・芦原(あわら)街道である。

 十文字は、自分の名前を黒々と大書したオレンジ色の幟(のぼり)を立てた自転車で、住宅地を走り回り、人とすれ違うたびに「よろしくお願いしまーす」と叫び、右手を大きく振り回す。

 その大げさな格好に通行人が冷笑を浴びせても、十文字はまったく動じない。恥も外聞もなく、がむしゃらに生きるのが昔からの流儀だ。

 一帯には古い農家が多い。門を入ると墓がある家もあり、緑色の苔が生(む)した墓に「故陸軍歩兵伍長勲七等功七級山口覺之碑」などと刻み込まれている。

 門の脇で話し込んでいた2人の老婆が十文字の姿を見て「あれ、十文字さんところの……」と囁きを交わす。

 「……どうだ、いい写真が撮れたか?」

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「第13章 鯨の葬式(3)」の著者

黒木 亮

黒木 亮(くろき・りょう)

作家

1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒、カイロ・アメリカン大学(中東研究科)修士。銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務して作家に。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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手嶋 龍一 作家・ジャーナリスト