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2009年4月18日(土)

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 一 藍の花

 神楽太鼓と笛の音が秋風につれられて聞こえてくる。今日は武州血洗島村(ぶしゅうちあらいじまむら)の諏訪神社例大祭の日である。中の家(なかんち)の渋沢家では朝飯が台所で始まっていた。祭日でも食膳の献立に代わりはなかった。父市郎(いちろう)の膳は一皿多い。長男栄一、長女なか、次女貞子(ていこ)らは飯椀に一汁とおこーこの一菜だけである。母の栄(えい)も同じだ。

 別に塩納豆の数粒が皿の横に置かれていた。薄暗い台所では蠅と間違う黒さである。

「栄一、今日は鎮守で試合があるだろ。卵を食うとこ」

 栄が卵を一つ渡した。その生卵をかけて二杯目の飯を軽く平らげた栄一が「ふーむ」と箸を置いた瞬間、カタリと別の音が響いた。

中の家全景
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「今日は獅子舞の前に奉納試合があるのか」

 市郎が問いかけた。

「今年こそ東の家(ひがしんち)に勝ちます」
「しかし、あまり撃剣(けんじゅつ)の稽古はしておらんようだな」
「今年は若者頭になって祭りの用意に忙しいんで、長七郎(ちょうしちろう)と喜作(きさく)が東の家の宗助(そうすけ)兄弟と相手するだ」
「人のことはどうでもよい。最近では書も撃剣も辞めて、東の家に顔も見せていないと聞く。本家からこの中の家の借金を返し、田畑を買い戻して名主になれたのは、わしが苦労して藍玉の行商で儲けたお蔭だ。お前も十六歳になったからには真面目に百姓をやんなさい」

 市郎は渋沢本家の三男に生まれたが、二十年ほど前に傾きかけた分家の中の家に婿入りしてきていた。

「祭りが終わったら尾高新五郎さんと一緒に信州に藍玉を売りにいくことになってるだ」

 尾高家は隣の下手墓(しもてばか)村の名主で渋沢の親戚にもあたる。その総領の新五郎は水戸の藩主徳川斉昭が主張する攘夷論に傾倒して、今はやりの水戸学を栄一に教えてくれていた。

「栄一、武士道とは命を捨てることだ。亜米利加の黒船が来たからといって、一戦もせずに軽々しく開国するような幕府や大名は侍の屑だ。ハリスの首を刎(は)ねることが侍の忠義なのだ」

 武州安部藩の徒士(かち)でもある新五郎は開国の禍を熱っぽく語った。しかし関東の田舎しか知らない栄一にとって、攘夷とは事あるごとに横車を押す東の家の一族であった。

「栄一、気をつけてな。負けてもいいから、怪我だけはすんなよ」

 栄は出かける一人息子に優しい声をかけた。

「かーちゃん、試合は木刀でなくて竹刀だ。心配しないでいいから」

 桑畑と藍畑を幾曲がりかすると諏訪神社の大欅が見えてくる。川越藩師範役大川平兵衛の道場に入門している近在の若者たちによる紅白奉納試合が午前中に行われる。試合場になる拝殿の前庭はすでに掃き清められて小石も見当たらない。左右の橘(たちばな)の樹には紅白の布が巻かれ幟(のぼり)や旗が靡(なび)いている。

 気持ちが高ぶった栄一はすぐに試合の組合表を覗いた。紅組の先鋒に名前が載っていた。師範から上達を認められなかったのか、まだ目録は貰えず今年も先鋒である。身長が五尺二寸、小太り胴長短足の栄一の剣技(けんさばき)はお世辞にも上手くは見えなかった。

 次鋒は尾高の三男平九郎、まだ十歳であるが、すでに栄一よりも二三寸背が高く、目鼻のきりっと通った色白の美少年剣士である。副将は栄一が日頃からもっとも親しくしている分家の新屋敷の喜作、そして大将は北武蔵の剣士天狗と呼ばれている新五郎の弟の長七郎だった。

 白組の大将は案の定、東の家の渋沢新三郎で、副将は弟の宗五郎であった。新三郎はすでに神道無念流の免許皆伝をもらうほどの腕前である。

 四刻の太鼓が叩かれて試合が始まった。

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