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この淵には竜神がいる

  • 茶屋 二郎

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2009年4月24日(金)

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 帰りすがらの夕空には赤城颪(おろし)の木枯らしが舞っていた。一方、栄一は心中の憤怒にたぎる心を冷やすことはできないでいた。

「岡部の領主は年貢を取りながら返済もしない金員を更にせびる。なおかつ人をちり紙のように軽蔑嘲弄(けいべつちょうろう)して平気である。このような世の中の道理に反することがどうして起きるのか。これは徳川の政事(まつりごと)が善くないからではないのか。百姓をしていると、この先も知恵分別のない者から虫けらのように軽蔑され続けることになる。余りにもばかばかしい話だ。どうしても百姓はやめたい」

 帰宅して事の始終を父市郎に報告すると、

「泣く子と地頭にはかなわぬと昔から言う。どうせ受けねばならぬものだから、明日金を持って受けてくるがよい」

 栄一は父から静かに諭された。しかし十七歳の心に強く刻み込まれた屈辱の思いは、熱い火炎としてメラメラと逆に燃え上がっていた。

 武州各地の柿の木に橙色の実がいたる所につき始めた頃、栄一は江戸に向かおうとしていた。連れは前の家(まえんち)の叔父保右衛門(やすうえもん)である。前の家は渋沢家の総本家だ。母の妹のふさが保爺(やすじい)に嫁いだせいからか、幼い時からよく栄一を可愛がってくれていた。

「保爺さん、ちょっと尾高に挨拶をしてくるから一刻ほど待っていてくれ」

 栄一は七町ほど先の尾高家に走った。その横庭では機(はた)の音とともに下女たちが石臼で蕎麦を引いたり、干豆を棒で打ちながら談笑している。女たちの中には千代も交じっていた。

「栄一さん、どこへお出かけ、また上州へ」

 腰に長目の脇差を一本差して角帯、半股引(はんももひき)に脚絆(きゃはん)、草履ばきの旅姿を見て話しかけてきた。

「父さんが本箱と硯箱を新調したいというんで江戸へ行ってこいといわれただ。ついでに新五郎さんが『阿片戦争談』を貸してくれるというんだ」
「何、その本・・・」
「夷人たちが清国に阿片を売って、清の領土を奪い取っているという話だ。許せないだ」
「そう、兄さんはわたしが人の道を知りたいといっても、女子(おなご)が何になるかといって本も読ましてくれないの」

千代
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 千代は顔を赤くして息まいた。

「新五郎さんの言葉とも思えないな。乃公の『論語』でよければ貸してあげるだが」
「嬉しい」

 栄一は懐からいつも肌身離さずに持っている「論語」の綴じ本を手渡した。六歳の時から父に厳しく「三時経(さんじきょう)」と「四書五経(ししょごきょう)」などを教わったが、「論語」だけがなぜか心に沁(し)みた。それも千代の手に渡るなら惜しくはなかった。

 一方座敷で栄一を迎えた新五郎は千代の話を聞くと、

「女子が論語を読んでも、結構か」

 そう言うと、棚から「阿片戦争談」と新しい「論語」の綴じ本を栄一に手渡してくれた。

「栄一もまだ『論語』がいるだろう。持っていくのも結構、結構」

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