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こんな情けないお姿を拝するとは

  • 茶屋 二郎

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2009年6月6日(土)

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 神田を出発してから川崎と藤沢に一泊、先夜は小田原に泊った栄一は朝霧の向こうに箱根の山々の峻険が目の前に迫ってくる光景に足を止めた。そこで一人湯本の茶屋で腹ごしらえの雑煮餅を食べることにした。不遇をかこっている慶喜公のことを思うと駕籠にも馬にも乗らずに箱根の山を越そうと考えた。それでも夕方までには箱根を越えて三島に着くつもりであった。

 夕方三島に着いてから金川屋という旅館に泊まり、翌朝は六時半に宿を出て沼津に向かった。田子の浦からは壮大な富士の景色を堪能できて一人ながらも足どりは軽かった。喜作が側にいない寂しさがあったが、本当に日本に帰ってきたのだという実感が胸に広がっていた。翌日清水の港近くで昼飯を取ろうとして一軒の浜茶屋に入った時、栄一は店の老婆から唐突に言われた。

「あんた、公方さまのお侍か。うちら錦切(きんぎ)れはごめんだもんで」
「いかにも、何か」
「あんた、よそ者ずら何も知らんだけん。この八月のどえらい台風の後に公方様方の軍艦が一艘この清水の港に入ってきたっけ。そこへ官軍(みやびがた)の軍艦が三艘も突然きたじゃん。そんでポンポンやりだしたじゃんか。三艘に一艘だもんでかないこないやね。公方様方はさんざんやられて、とうとう沈められたじゃん。海の上に死骸がプカプカ浮いてほっておくけん、だんだん腐ってくるずら。それをなあ、清水の親分の次郎長さんが死骸を拾い上げてくれて、四里四方の寺のお坊さんを何百人も集めて回向してくれたよーお」

 飯を食いながら聞いていた栄一に憤怒の思いが突き上げてきて箸を置いた。軍艦は最初にアメリカに渡ったあの思い出深い咸臨丸(かんりんまる)だと知ってよけい屈辱の思いがつのり、つい刀の柄に手を掛けた。まさか喜作がその船中にいたとは思いたくなかったが、いまだに何一つ便りの無いことだけは事実であった。

 栄一は十二月十九日の日暮れ前にようやく駿州府中に到着した。ひと先ず油屋という宿屋に落ち着くことにして、用意してきたヨーロッパ使節団の旅費一切の明細書を静岡藩庁に差し出すために御城の勘定所を翌日訪問することにした。運良く勘定頭の平岡準蔵はもと一橋藩の上司だっただけによく見知っていた。平岡はすぐに中老職の大久保一翁(いちおう)を紹介してくれた。

大久保一翁 「国立国会図書館 近代日本人の肖像」より転載
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「今月三日に徳川昭武殿の御守役としてフランスから帰国した渋沢栄一です。これが旅費の明細書で残高は千八十四両三分九文七厘五毛につきこれをお返しいたします。パリの旅館や諸道具の売却代金はいまだ送金されてきておりませんが、昭武様の持分の金額は七万八千八十八フラン五サンチイムでございます」
「お主のことは御側用人の川村恵十郎よりも聞いている。三十歳にしては物事の筋道をよく知っている。近頃海外へ行った幕臣は費用が不足すればいくらでも要っただけを請求し、余りがあれば役得と心得て私しても平気である。そなたは厘毛も誤魔化さず当然のことであるが見上げた心がけだ」

 老齢で痩せぎすでありながら体の背筋がよく伸びた大久保が愛想よく栄一を誉めた。

「慶喜公にはご当地にて御謹慎中とは存じておりますが、昭武様よりの御書状と御伝言を預かって参りました。直々に拝謁して委細言上(ごんじょう)申し上げたく是非御心添えを願い奉ります」

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