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父上、待っていてください

  • 茶屋 二郎

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2009年6月20日(土)

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 桃の蕾が膨らみかけた明治三年二月二十三日、千代の予想どおり次女が産まれた。飾られた雛人形たちの前で産衣に包まれた赤児を栄一は「琴子」と命名した。千代が好きな平曲や義太夫の音曲などを牽(ひ)けるような女子になって欲しいとも思ったからである。

 翌日栄一は函館で降服した旧幕府軍の将校達が大手門の手前にある兵部省の糾問所(きゅうもんしょ)に送られてきたことを小耳にはさんだ。ひょっとして喜作も一緒にいるのではないかとすぐに名簿を取り寄せて調べることにした。長屋一棟が五区の牢に区切られてそれぞれに二十名ほどの科人が収監されていた。なんとその中の四番牢に「函館脱走者歩兵頭渋沢喜作」の名があるではないか。栄一は歓喜の声を上げた。すぐさま下男を呼んで着物、食物、金銭を届けるように手配した。

栄一(大蔵省出仕時代)
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 しかし栄一は糾問所のある方角を見ながら会いに行くことを逡巡していた。今の自分は喜作の敵であった新政府の官吏である。彼は素直に自分の変心を許してくれるだろうか。それに大政奉還の一番大事な時に欧州に出かけて行ってしまい、喜作や平九郎の役に立てなかった負い目が重く栄一の心にのし掛かっていた。

 その晩神保町の自宅に帰ると、居間では歌子が突然訪れた父市郎にまとわりついて遊んでいた。謹厳実直で笑顔一つ見せなかった昔の父親は孫の前では好々爺に変わっていた。

「父上、只今帰りました」
「殿様の御帰りだ。琴子の祝いを奥様にもってきただ」
「父上、殿様とか奥様などと呼ばないでください。何故昔のように千代とお呼び遊ばさぬ。もったいなくてお返事をできないではございませんか」

 千代が珍しく市郎に刃向った。

「なーに、わしは昔栄一に田舎の我家を固く守らせる為の教育をしただけで、今このような身分に出世したのは全く栄一の才能からである。大蔵省の官を頂いて天皇陛下に仕える朝臣さまにどうして軽々しく栄一などと名前を呼んでいいものか」

 栄一は孫たちに囲まれて上機嫌な父を見ると、あえて反論をすることも、喜作が糾問所に捕らわれている話も止めた。

「父上、政府ではこれから貿易を伸ばすために蚕糸(さんし)の輸出を考えています。しかし蚕種の製造が粗悪で不正品が多く販売されているため、多くの商人が破産しています。それに日本の製糸は、横糸には使えるが縦糸には太さが揃わず使えぬとオランダ人が述べています。何かいい知恵はありませんか」

「そうか、明日は横浜の東の家の店へ行って聞いてくるだ」

 市郎は六十二歳になっても一人で歩けるほどの健脚であった。本家である東の家(ひがしんち)の宗助は数年前から横浜に輸出専門の店を構えて、蚕糸を関東のみならず広く東北地方からも仕入れて大成功をしていた。

 一方、栄一はフランス式の製糸工場を故郷近くの富岡につくるつもりでいたが、幼少より仲の悪かった東の家より、藍玉と論語を通じて人生を教えてくれた義兄の尾高新五郎に工場長を頼もうと思っていた。

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