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「切り花型」技術革新には限界がある

日本屈指のイノベーション企業、浜松ホトニクス

  • 佐藤 紀泰(日本経済新聞産業部次長)

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2011年4月6日(水)

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 浜松ホトニクスは光技術分野で世界をリードする日本屈指のイノベーション企業である。特に有名なのは東京大学名誉教授である小柴昌俊博士によるノーベル物理学賞を陰で支えたことだ。素粒子「ニュートリノ」の観測において、浜松ホトニクスが開発した大口径の「光電子増倍管」が大きく貢献した。

 同社も2008年秋のリーマンショックにより一時的に業績が減益基調になったが、早くも医療分野や通信分野などで光レーザー半導体などの需要が回復し、今年度も20%程度の売上高営業利益率を見込む。この会社を第2次世界大戦後の創業以来、リードしてきたのが創業者の1人である晝馬輝夫会長だ(現在は病気療養中)。

 晝馬会長は長く、中国での光産業の育成も支援してきた。中国の有力大学への研究支援も昔から力を入れてきた。ただ、そんな協力があっても、中国の光産業大手や有力大学も、浜松ホトニクスとの技術的な格差を埋めることができていない。それはやはり、浜松ホトニクスが「頭脳大国・中国」と競合しても、不撓不屈のイノベーションのDNAを維持できているのではないか。

 輝夫会長の息子であり、昨年浜松ホトニクスの社長に就任した晝馬明氏のインタビューの前に、晝馬輝夫会長の経営者としての足跡を簡単に追ってみたい。

浜松ホトニクスを日本屈指のイノベーション企業に育てた晝馬輝夫会長

 浜松ホトニクスは1948年に、技術者だった堀内平八郎氏や晝馬輝夫・現会長らが浜松市内で設立し、光電管などを開発、製造していた。この会社の創業に最も大きな影響を与えたのが、「テレビの父」と呼ばれた高柳健次郎博士である。

 高柳博士は浜松工業高等学校(現在の静岡大学工学部)の助教授時代、テレビの開発を志した。そして、奇しくも晝馬会長が生まれた1926年に世界で初めて電子式テレビで「イ」の字を映し出すことに成功したのだ。


ラジオ放送すらない時代にテレビ開発

 世界で誰もが開発どころか、想像もしないような新しい技術に挑む。その高柳スピリットに感激したのが若き技術者だった浜松ホトニクスの創業社長となる堀内平八郎氏だった。堀内氏や晝馬会長は同時に、高柳博士の発明を後押しした1人の教育者からの教えも、浜松ホトニクスの経営哲学として生かすことになる。それは高柳博士の研究を支えた浜松高等工業の関口壮吉校長だった。

 まだ、NHKのラジオ放送すら始まっていない時代だ。それでも、高柳博士の「テレビの研究をしたい」という申し出を許すだけでなく、政府に掛け合って多額の研究予算すら確保した。浜松高等工業は関口校長が作った校訓があった。それは「自由啓発」である。

 入学試験にパスすれば、その後に試験はやらず、学生たちに自発的に勉強をさせる。それゆえ、教授陣や学生にも「誰も知らないことをやれ」と言い続けた。その結果として、電子式テレビの成功があった。そして、こうした自由闊達な風土を引き継ぎ、大切にしたのが浜松ホトニクスの歴史なのである。

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