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社会主義体制の周縁で起きた「辺境革命」

『中国共産党と資本主義』第6章を読む(2)

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2013年3月5日(火)

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 中国の改革の物語を正確に表現するには、中国の市場転換における2つの改革の共存を認識しておくことが絶対に必要だ。そもそも、ポスト毛政権は明らかに国家主導の改革推進をもくろんでいた。毛沢東の社会主義体制の悲惨な経済実績は、かつて意気揚々としていた党を失望と挫折と屈辱にまみれさせた。

 この挫折感は、アジア近隣諸国や他地域の国々が急速に経済成長していると指導部が知ってから、いっそう深まった。しかし彼らは外遊中に技術革新や経済的繁栄を目の当たりにして奮起し、励まされてもいた。対外開放をして先進諸国から学びさえすれば中国は追いつける、と考えたのだ。中国指導部は承知していた。この先には道しるべがないと。行き先すら知らなかったかもしれない。それでも、断固として改革に臨んだ。経済の停滞から脱したくてたまらなかった。

華国鋒政権の「洋躍進」

 国家主導の改革が始まったのは1976年の末、華国鋒が経済を刺激する計画「4つの近代化」を復活させたときだった。もともとは64年に周恩来首相が提案したものだが、毛沢東の「社会主義教育」運動の発動と2年後の文化大革命ですぐ棚上げにされていた。

 華国鋒政権の中国は速やかに自滅的な階級闘争を終わらせ、社会主義的近代化に着手する。1年後、のちに批判者から「洋躍進」と呼ばれる野心的な対外開放の経済計画が始まった。20数件の開発プロジェクトの資金調達に外資を利用するものだったが、ほとんどは重工業と関連インフラだった。

 しかし「洋躍進」は長続きせず79年末に幕を閉じる。計画自体の欠陥のせいでもあり、78年12月の11期三中全会後、?小平と陳雲が政治の中枢に返り咲いた政権交代のせいでもあった。

 陳雲が中国経済の舵取りに戻ると、党中央委員会は1979年4月に当時「八字方針」と呼ばれた「調整、改革、整頓、向上」を打ち出して、ポスト毛政権による国家主導改革の第2ラウンド到来を告げる。この新経済政策で「洋躍進」は打ち切りとなった。

 新方針には「改革」も含まれていたが、基本的に経済の緊縮策であり、重点ははっきり「調整」に置かれていた。中国経済で調整が求められたものは何か。答えは簡単、「洋躍進」である。陳雲から見れば中国のマクロ経済的な問題をさらに悪化させたものだ。とくに重工業と軽工業、工業と農業の構造上のアンバランスを生んでいた。

最優先項目は農業

 新しい経済政策の最優先項目は農業だった。政府から見て「洋躍進」の最大の欠点は、農業を犠牲にして重工業に重点を置きつづけたことだ。そのため農業は、1978年コミュニケで認められたとおり苦境に陥っていた。

 食糧不足と飢餓は毛沢東時代に慢性的にはびこった問題であった。78年コミュニケは中国農業の暗澹たる状況に何度か言及し、農産物の買取価格を引き上げ、農村部への投資を増強すると約束した。この明確かつ緊急の農業重視策をもとに、政府はやがて、経済改革は農業から始まったと主張するようになる。

 これは重要なので、企業改革など他分野の改革も同時に始まったことを強調しておきたい。もっといえば、たしかに当時とられた農産物の買取価格の引き上げ、農民の食糧消費を増やすためのノルマ引き下げと食糧輸入増、副業の奨励、人民公社や生産大隊事業の発展といった農業政策は、このあと数年は農業生産を着実かつ大幅に増やし、農村部と都市部の不公平を軽減した。

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