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「記憶より記録」、醜いタイトル争いの愚

真剣勝負の義務を果たさぬ選手と監督

2014年9月19日(金)

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 「記録より記憶に残る」のが、プロ野球選手にとって最高の名誉とされている。だが、ペナントレース終盤での個人記録に執着した選手の動きを、どう理解すればいいのだろうか。とりわけ、タイトルを巡る「記憶より記録」にこだわった争いには、純粋に野球を楽しみたいファンを無視した行動が目立つ。

 綿密なチーム作り、斬新な戦法、そしてファンとマスコミを魅了するユニークなコメント――。巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの5球団で指揮を執り、日本ハムの球団社長を務めた三原脩は、日本球界に偉大な足跡を遺した功労者であることは、誰もが認めている。ただ1つ、今も球界に残る「悪習」を広めた張本人であることを除いて…。

 それは、タイトル獲得のためには、シーズン大詰めの試合でファンお目当ての選手の欠場も辞さないという采配だ。

 1956年の西鉄で、チームメートの豊田泰光、中西太が激しく首位打者を争った。最終戦を残して豊田3割2分5厘1毛、中西3割2分4厘6毛。1安打を打つか打たないかで逆転もある最終戦決着が注目された。

 だが、監督の三原は最終戦に両者を出場させず、豊田が初の首位打者になった。成長中の選手にタイトルを取らせると自信がつき、さらなる飛躍につながる。契約更改で大幅昇給するし、それを後押しするのは監督の大事な仕事と考えていた。

 豊田、中西のケースでは両者不出場でチーム内の融和も図れると踏んだ。だが、勝ち気な豊田は「俺は出るつもりだった」と言い張る。意に沿わぬ「欠場」を、半世紀以上経った今でも残念がっている。

 三原は近鉄の監督だった69年にも「細工」を施した。二刀流選手の先がけ、永淵洋三が打者に専念した最初のシーズンだった。2試合を残して打率トップの3割3分4厘。一足先に全日程を終えた東映・張本勲の3割3分3厘を1厘上回っていた。近鉄が残していた2試合の相手は優勝を争う阪急。主力打者に成長していた永淵を、さすがに休ませるわけにはいかない。

 だが、その阪急との初戦に近鉄は敗れ、優勝の望みは消えた。永淵も打率を落とし、3割3分3厘で張本とピタリと並んだ。「安打数は張本より2本多い。お前が実質的な首位打者だ」という理由を付けて、三原は永淵を最終戦に出さなかった。

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「「記憶より記録」、醜いタイトル争いの愚」の著者

浜田 昭八

浜田 昭八(はまだ・しょうはち)

スポーツライター

アマからプロまで野球一筋半世紀という超ベテランのスポーツライター。現場取材にこだわり続けて、今日も記者席から白球を追う。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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