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秘密兵器の開発に携わった2人の経営者

旧日本軍の「登戸研究所」を訪ねて

2015年3月12日(木)

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登戸研究所に残る旧第二科研究室(現資料館)の廊下。ここで生物兵器の研究が行われた

 新宿駅を出た小田急線が多摩川の鉄橋を渡る頃、東の方向に小高い山が見えてくる。多摩丘陵である。

 丘は住宅地として開発され、上部には明治大学生田キャンパスの近代的な校舎が並ぶ。この地に明治大学が進出したのは終戦から5年が経過した1950年。伝統ある生田キャンパスには冒険家の故植村直己氏や、映画監督の北野武氏らも通った。

 明治大学の正門から最も奥に位置する場所に、コンクリート造りの古い建物を見つけることができる。5年前に開館した「明治大学平和教育登戸研究所資料館」である。

 登戸研究所――。

 一見アカデミックな名称だが、その実、かつて帝国陸軍の「秘密戦」のための開発拠点であった。明治大学は終戦から5年後の1950年、登戸研究所跡地の約半分を取得し、農学部と理工学部のキャンパスにした経緯がある。

 現在の資料館の建物も第二科研究室と呼ばれる軍事施設だった。ここでは農作物を枯らす細菌兵器の開発などが進められていたという。現在、平和教育のための展示室に改装されているが、薄暗い廊下や、写真の現像室などが、往時を忍ばせる。

 キャンパスにはこの他にも、登戸研究所の痕跡を複数、見つけることができる。

 登戸研究所は生物・毒物兵器、風船爆弾、スパイ機材、偽札製造などの開発、製造を担っていたと言われている。中には人道上、国際法上、許されない内容のものも含まれていた。戦時中は一切が秘匿されていた。

 終戦を迎えた時には、即座に文書や研究材料が焼かれてしまった。一体、ここで何が行われていたのかを詳細に知るには、「当時研究所に関わった方々の証言に頼るしかない」(同資料館)という。

 戦後しばらくは明治大学に残っていた研究所施設も老朽化に伴い、多くが取り壊された。それでもキャンパス内にはこの第二科研究室をはじめ、かの大戦を物語る貴重な遺構がいくつか現存している。 

明治大学の片隅に旧日本陸軍の秘密施設跡がある

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「秘密兵器の開発に携わった2人の経営者」の著者

鵜飼 秀徳

鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)

日経おとなのOFF副編集長、浄土宗僧侶

京都市景観市民会議委員(2016年)、佛教文化学会会員。 1974年生まれ。成城大学文芸学部卒業後、報知新聞社へ入社。2005年日経BP社に入社。日経ビジネス記者などを歴任。2016年4月より日経おとなのOFF副編集長。浄土宗僧侶の顔も持つ。正覚寺副住職。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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