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「負債」でなく「アセット」を長期資本の源に

2008年11月15日(土)

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銀行は大きな河のようなものだ。銀行に集まってこない金は、溝に溜まっている水やポタポタ垂れている滴と変わりない。【第一国立銀行株主募集布告】

 これは、日本初の銀行、第一国立銀行(現みずほ銀行)の株主募集布告で渋沢栄一が言った言葉です。つまり、散らばっていれば効力がないお金が、集まって「大河」という資本になれば、建国の原動力となるという考えであります。

 明治時代初期に欧米へ派遣された岩倉具視使節団の米国銀行制度の研究を参考に、明治政府は新しい民主主義国家の近代的経済の発展に不可欠な金融システムを築くため、1872(明治5)年に国立銀行条例を制定します。この条例の作成に任命されたのは、大蔵少輔事務取扱(*注)の渋沢栄一でありました。(*注 明治政府において省の次官、大輔の次位

前回の英文記事※1をご参照ください。

 栄一は三井組と小野組に新しい銀行に対して、それぞれ100万円ずつ出資するよう説得し、国立銀行条例が正式に施行される以前の段階であった1872年8月に、第一国立銀行の設立を促します(物価指数を考慮して推定した当時の1円=現在の2250円)。

 第一国立銀行は100万円の増資を行うために、日本初の公募増資を同年の11月に実施し、栄一自身も4万円を出資します。ただ、世間には「銀行」というベンチャービジネスに対する認識が普及していなかったため、応募したのは40人余りの投資家だけ。結果的には予定額を達成できず、44万800円の増資となりました。

前回の英文記事※2をご参照ください。


日本初の銀行の運営に携わった渋沢栄一

 総員71人の株主による244万800円の資本金により、日本初の銀行は1873(明治6)年に、兜町(現在の東京証券取引所の隣)で開業します。当初の経営陣として三井組、小野組の両側から頭取と支配人が送り込まれましたが、そもそも誰も銀行という新しい事業の経営経験がなく、かつ両側の勢力争いや利害関係の衝突から内輪割れする恐れが高まりました。

 一方、農商の豪家の出身者であり、官僚的なお役所には肌が合わない渋沢栄一は、民間の底力を高めることによって建国に貢献するという志の原点に戻り、大蔵省を辞任しました。したがって、渋沢栄一が民間企業である第一国立銀行の総監役として任命され、頭取の実務を監視し、銀行経営の一切の責任を負うことになりました。その後、1875(明治8)年に頭取に任命され、実業界を引退する1916(大正5)年まで40年間以上務めることになりました。

前回の英文記事※3をご参照ください。

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