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篤姫の嫁入り道具、「薩摩切子」を蘇らせたガラス工房

  • 秋元 志保

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2009年9月11日(金)

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 地域の風土や文化から生まれた伝統工芸品は、私たちの生活に密着していたものでした。気軽に楽しめたはずの工芸品は今や手の届きにくい高級品となり、買い手がその価値を理解することも難しくなりました。伝統工芸を取り巻く環境は決して楽ではありません。しかし、過去にも多くの困難を乗り越え、伝統工芸は何千年、何百年と生き残ってきました。

 この連載では、こうした日本の素晴らしい伝統工芸品を守りながら、新しい工芸品の道を探すべく「JAPANブランド育成支援事業」に参画している事業者の試みと工芸品への思いを紹介していきたいと思います。

 JAPANブランド育成支援事業は、全国商工会連合会、日本商工会議所が中心となり、世界に通じる新しい商品やサービスを作り、自らの経営基盤の強化と地域経済の活性化を目指した事業です。後継者不足や市場の縮小に負けず、伝統の革新に挑む事業者たちの取り組みには、「モノ作りニッポン」が生き残るヒントがあるのかもしれません。

篤姫の嫁入り道具にもなった幻の工芸品

 鹿児島県の山奥に注文から納品まで3カ月待ちという人気の「薩摩切子」を製造している工芸館があります。薩摩切子は、NHK大河ドラマで有名になった篤姫が嫁入り道具のひとつとして徳川家に献上されたとも言われている鹿児島県の伝統工芸品です。

篤姫の嫁入り道具にもなった色鮮やかな薩摩切子
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 江戸時代、薩摩藩主島津斉興(なりおき)が医薬用に使うガラス器を製造したことがきっかけとなり、薩摩切子は誕生します。そして、1851年、第28代島津家当主となった島津斉彬により飛躍的に発展していったのです。

 当時、斉彬は「日本を諸外国のように強く豊かな国にしなければならない」と、日本初の西洋技術を取り入れた工場群「集成館(しゅうせいかん)」の建設を計画しました。

 「集成館事業」と呼ばれたこの事業の中で、「薩摩切子」は薩摩の殖産興業として多くの工場で製造されたのです。

 ところが、1863年、生麦事件に端を発した薩英戦争で集成館は英国艦から砲撃を受け、薩摩切子を含む多くの工場が壊滅。さらに1877年の西南戦争が追い打ちとなり、国を豊かにするため、また薩摩の特産品として製造が開始された薩摩切子は数十年で、その姿を消すことになりました。

この道50年のガラス職人が起業を決意

薩摩びーどろ工芸株式会社 代表取締役・加藤 征男(かとう・ゆきお)氏
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 一度は歴史に幕を閉じた薩摩切子。しかし、1985年、島津家の子孫と地域の人々の力により、復元活動が始まり、腕利きのガラス職人たちがこの地に集められました。そのひとりが、薩摩びーどろ工芸の代表取締役でもある加藤征男さんです。

 加藤さんはこの道50年のガラス職人。職人仲間と復元活動に参加し、120余年ぶりに薩摩切子を復活させたのです。さらに、さつま町の町おこし事業として薩摩切子の製造を託され、「自らの手で薩摩切子を再び世界に広げたい」と起業を決意します。そして94年、「薩摩びーどろ工芸」を設立。新たな職人たちと共に、ガラス事業に勤しみました。

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