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夢を追いかける仁侠の人(その6)

日本電産社長・永守重信 ―― 夢の共有

  • 高橋 三千綱

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2006年9月22日(金)

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 4人の若者を乗せて出航した小さな船の帆は、とほうもない夢でふくらんでいた。

 それは、独立独歩の企業づくりと、世界に通用する商品をつくり、世界の市場で競争するというものだった。

 しかし、現実は厳しい。日本電産といっても誰も知らず、会社案内のパンフレット1枚を持って、京都市内の研究所や企業の開発部門を、飛び込みでセールスすることから始まった。

 民家の1階を借りて作った、技術部という名の工場が桂上野にあった。セールスから戻ってくると、4人は作業服に着替えて、試作品つくりに精をだした。

 モットーは、どんなものでもつくれる、他社の半分の納期で仕事する、というまさに情熱と執念の権化という精神に支えられたものだった。

永守重信氏
永守 重信(ながもり・しげのぶ)氏

1944年8月、京都府生まれ。62歳。67年、職業訓練大学校卒業後、メーカー勤務を経て、73年に日本電産を創業。精密小型モーターを主力に80年代から90年代のハードディスク市場の拡大に乗って急成長させた。積極的なM&A(企業の合併・買収)を実施。傘下に収めた経営不振企業を短期間に次々と再生してきた。2010年に連結売上高1兆円を目指す。

 初年度である1973年度の売り上げは、7000万円で900万円の経常利益がでた。

 74年にはアメリカの化学・電機素材の大手メーカーである3Mとの取引に成功し、その翌年には3Mからの発注量は10倍に増えた。

 日本の企業は、無名の会社の技術力を軽んじたが、アメリカはそれだけを見て、評価してくれた。これは、世界を目指す若者達を勇気づけてくれた。

 これには当時ニューヨークに支店を持つ、加地貿易という商事会社で働いていた、市川陽一さんの協力があればこそだった。

 「市川と親しくなって、彼と2人で3Mのあるミネソタに飛んだ。彼の抜群の英語力に助けられた。のちにうちの会社に来てくれて、それからは2人で世界中を何周も回った。まるで弥次喜多道中だった。それが今日の海外マーケットを築き上げてきたんです」

 75年には東京に出張所を設けた。赴任したのは大学の後輩の小部博志さんで、下宿がたまたま永守さんと同じだったことから「子分」となり、それはいまだに社長、副社長という関係で続いている。

 「うちの会社の原点ということでは、小部と市川の2人が大きな役割を果たしている。1+1が2ではなく、4の力を発揮した。創業当初のこの2人の貢献は大きいですよ」

 「今専務をしている、ものづくりの一番長い浜口(泰男氏)は、下請けさんの息子だった。それが2~3年預かっているうちに、親の工場を継ぐのをやめて、ここに住みつくことになった。親と対立してまで来るということになれば、上司部下の関係ではなく、親分子分ですよ」

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