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世界最高峰「MOTO GP」挑戦を支えた看板娘

「モリワキエンジニアリング・森脇緑」の巻

  • 双里 大介

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2007年4月25日(水)

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モリワキエンジニアリングでチームマネージャーを務める森脇緑

モリワキエンジニアリングでチームマネージャーを務める森脇緑

 何度、屈辱的な思いを味わったことか。人と会うことさえ怖いと思った時もあった。華やかな世界の裏側で目にした現実。それでも、森脇緑は退くことをよしとしなかった。「血を吐くまでやる」と決意してから6年。あの頃24歳だった緑は、今年で30歳になる。

 サーキットの街・三重県鈴鹿市。鈴鹿サーキットを駆けるマシンの走破音が聞こえてきそうな距離に「モリワキエンジニアリング」はある。従業員数37名。二輪車・四輪車用の高性能パーツの開発から販売までを手がける会社だ。


モリワキのメインの商品は、バイクの高性能マフラー

 緑の祖父の名は吉村秀雄。「ポップ吉村」の名をオートバイの世界では知らない人はいない。「ヨシムラ」の創始者。オートバイとレースに生涯を捧げた伝説の人物だ。

 吉村のもとでエンジニア兼レーサーとして働いていたのが森脇護だった。護は、吉村の娘・南海子と結婚。1973年に独立し三重県鈴鹿市に「モリワキエンジニアリング」を立ち上げる。その4年後に緑が生まれた。

 モリワキエンジニアリングはマフラーなどのパーツを製作する一方で、レース活動に打ち込んだ。緑にとってサーキットは庭のようなものだった。耐久レースともなればレーサーの体力消耗度も激しくなる。幼い緑は、レーシングスーツを脱いだライダーの汗をタオルで拭い、必死にうちわであおいだ。

 高校は工業高校へ進学。卒業後は、世界のオートバイ事情を知るため、そして語学を身に付けるためにオーストラリアへ留学した。この世界に飛び込むことに躊躇はなかった。20歳の時、父が営むモリワキエンジニアリングに入社した。

社長 父・森脇護
マネージャー 母・南海子

社長は父である森脇護。マネージャーは母、南海子

 2001年のある日、部屋で眠っていた緑を母の南海子が起こしに来たのは深夜のことだった。「ちょっと話があるから」。パジャマ姿のまま、緑は居間へ足を向けた。

 「MOTOGPに挑戦したい」。話を切りだしたのは、父の森脇護だった。MOTOGPは二輪レースの世界最高峰であり、バイクに関わる者であれば誰もがあこがれるレース。四輪レースでいうF1のような存在だ。「お金は掛かるだろうけど、お父さんのために協力したい」。母は少しずつ貯めてきたお金を、そっくり父に渡すつもりだと言った。

 「緑も力を貸してくれないか」と父に頼まれた。ただ、どれだけ父に頼まれても、すぐに返事ができなかった。国内レースならまだしも、海外のレースであり、ましてや二輪レースの頂点に位置するMOTOGPだ。どんな世界かもわからず、何からどう手をつけていいのかもわからない。資金も人脈もない小さなパーツメーカーに本当にできるのか。緑は結論が出せずにいた。

 数日後、両親は東京にいた。向かった先はホンダだった。事業面やレース面においてホンダとのつながりは小さくない。しかし、MOTOGPに出場するとなれば、サーキット上ではホンダとライバル関係になるかもしれない。それでもレースに出たいと思った両親は、ホンダへ仁義を切りに足を運んでいたのだ。

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