起業を思い立ったのは、夫の吉宏さんではなく、妻の咲恵さんである。それを実行し、会社をつくったのも、咲恵さんである。それは、すべて夫の技術を、輝かせる場にもっていきたいと希求したことから始まった。
「主人だけではないんです。研究所にはすばらしい技術を持った方たちが、それこそ何百人といらした。でも、その方たちが開発したものが、必ずしも商品化されて市場にでるということがないように見えたんです」
咲恵さんには、とてつもない能力を秘めた技術者のエネルギーが、大空の彼方に雲散霧消していくように映った。
「私には技術のバックグラウンドは何もありませんでした。ですから、図面を書いて、部品をつくり、線をつないでソフトを入れたら何かが動きだすなんて、まるでマジックをみているようでした」

秋山 咲恵(あきやま・さきえ)氏
1962年生まれ。奈良県出身。87年京都大学法学部卒業後、アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)に入社。94年、松下電器産業の研究者だった夫の秋山吉宏とともにサキコーポレーションを設立。代表取締役社長兼CEO(最高経営責任者)に就任。政府税制調査会委員、経済産業省の「中小企業政策審議会」委員などを歴任。
夫の吉宏さんは京都大学大学院の修士課程で、ロボット制御工学を学んでいる。
当時はロボットアーム研究の最先端で、そこは花形研究室として注目されていた。そこで、学生だった吉宏さんは、「2001年宇宙の旅」に登場していた、HALコンピューターのような、人工頭脳をもったロボットを思い描いて研究していた。
卒業の時期になると、当然、産業用ロボットを企画製造している会社から、就職のオファーがくるようになった。
しかし、吉宏さんが選んだのは、松下電器産業だった。この頃には、産業用ロボットより、より一般の人が目に触れ、手に触れられる民生品機器を手がけてみたい、という思いが強くなっていたようである。
吉宏さんが配属されたのは、無線研究所という、松下電器では一番の老舗の研究所だった。ここには、有名大学を卒業した優秀な技術者の卵が、全国から集まっていた。彼は、昼夜を問わず、研究に従事していた。
吉宏さんも、彼らに混じって熱心に新製品の研究をするひとりだった。
彼らの手から、いくつもの商品が開発された。その中で咲恵さんがとくに記憶に残る製品は、アメリカの展示会に出されたコピー機のプロトタイプだった。
「まだへこへこのコピー機しかない時代に、ページを上向きにしたままめくってもコピーがとれ、しかも読みとってスキャンした画像データを、タッチペンでいきなりワープロ編集ができる、そんなものを四半世紀も前につくっていたんです」
ほかにも、デジタル画像処理の分野でもいくつか特許をとっていたという。
当時、松下電器では、事業部制を会社の組織にとりいれていて、事業範囲を超えたような、あまりに新しいものに対しては、受けいれる部がないということもあったようだ。
すると、そういったいいものが、案外商品化されることなく、いつのまにか放置されるままになってしまっていた。
「そんな技術をもっている人たちの仕事が、世の中にでていく効率が低いのは、もったいないし、技術者にとっても幸せではないはずです。そういう技術者が、お客さんの声が聞け、顔もみられるという、もっと近いところで仕事をする選択肢もあるんじゃないか、と考えだしたんです」
その時、その都度は大変だったと同感します。でもちょっと先に自信を持てる心構えと小さな事実に事業の目標ポイントを置けた結果が発展していく兆しなんだと改めて感動しました。私は営業で販売する面から技術者や工場の中を眺め汗を流してきて、今こういった製品を作れば販売できるというヒラメキがある度に、サキコーポレーションのような経路を歩んだ技術や経営経験者と会いたいと思っています。身近な人たちには「初期の小さな金がないだけ」と嘯いて海外市場への夢を捨てきれない58歳の小職者ですが。(2007/06/17)