今回お話を伺ったのは、古文書などの文化財を修理する技術者の鈴木裕さん。ときには1000年もの時間を経た文書を、熟練の技を駆使して修理するという日々の仕事に取り組んでおられる。しかし、鈴木さん「習熟してはいけない」と常に自らを戒めているという。
人間は自然に習熟してしまうものだ。脳の働きとして、それは回路に書き込まれてしまうため、「習熟」自体を壊すことは絶対にできない。だから、それを揺らし、そこから逸脱することのほうが、習熟よりもよほど難しい。しかし、それをやらないと新しい発見や進歩はない。
それを鈴木さんくらいになると意図的にやれるようになるのだろう。習熟することが大事だと言っているうちは、まだ初心者のレベルであり、熟練した人になると習熟は当たり前で、逆にそれを破るという方向に関心が行く。
世阿弥の花伝書にあるように、型が身についていない人間が破天荒なことをやったとしても、それはぜんぜん板についていない。しかし大名人が型破りをやると良いのと同じことだと思う。
自然に習熟ということは身についているのだけれど、そこから外れることによって、何か新しい境地が切り開かれる。だから、鈴木さんの「習熟するな」というのは、習熟しきった達人だけが言えることだ。
型があってこその型破り、習熟してこその習熟なし。そうして1つのところにはとどまらない。それが生命原理なのだろう。
いただいたコメント
コメントを書く