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【第14回】六本木交差点の誠志堂ビルで、料理屋を始める

誠志堂マイヤーズ 3代目 西石垣文江さん【前編】

  • 白河桃子

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2008年2月19日(火)

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 六本木交差点にそびえる誠志堂ビル。読者の世代には、六本木で待ち合わせる時は、このビル1階にあった本屋を利用した人も多いのではないだろうか。携帯電話のないバブル時の六本木での待ち合わせ場所は、第1位がアマンド前、そして第2位が誠志堂書店で立ち読みしながら、というのが定番だった。その誠志堂書店が閉店したのは2003年。なんと、当時創業100年目だったという。

誠志堂ビルを背に、六本木交差点に立つ西石垣文江さん

誠志堂ビルを背に、六本木交差点に立つ西石垣文江さん(写真:山田 愼二、以下同)

 現在、誠志堂ビル4階の沖縄料理店「島唄楽園」と1階の万華鏡屋兼バーを営むのが、誠志堂マイヤーズ3代目、西石垣(旧姓今田)文江さんだ。「生まれも育ちも六本木。小学校6年まで、ここに住んでいました。本が大好きで本屋が遊び場。2軒隣の家の同級生と、このあたりで三輪車を乗り回していましたね」

 誠志堂のルーツは、西石垣さんの祖母の代に遡る。祖母の実家は、100年前から六本木で本屋を営んでいた。後に祖父が神田から震災で六本木に移ってきて、家が隣同士になったことで祖母と結婚した。祖父の今田家の方は、誠志堂喫茶部の餅菓子屋から、食堂、おもちゃ屋、輸入雑貨店など、時代とともに商売替えをしてきた。

 六本木交差点にいくつもの店舗を持ち、誠志堂という屋号で一族がそれぞれ好きな商売をするという基本のスタイルは、今も変わらない。六本木通りを挟んで誠志堂ビルの対面にあるビルにも、親族が営むたばこ屋や古本屋が入っている。1988年に親戚同士で一緒に建てたのが、誠志堂ビルである。

 「今運営しているのは、元は母がやっていた万華鏡専門店を改装したバーと、沖縄料理店を六本木と乃木坂で2店舗。楽天市場にもオンラインの万華鏡専門店を持っています」と西石垣さん。六本木のど真ん中で育った彼女が、なぜ「万華鏡」と「沖縄」なのか? そもそもなぜ、彼女の現在の名字は西石垣なのか? まずは、気になる名字について聞いてみた。

母の万華鏡専門店を改装した「万華鏡BAR」の入り口

母の万華鏡専門店を改装した「万華鏡BAR」の入り口

 「1997年に、石垣島出身の夫と結婚したのです。私は大学生の頃に初めて沖縄に行って、すっかりハマってしまいました。特に石垣島の子供たちの目がとてもキレイだったので、こんなところで子育てしたらいいだろうなあ、石垣島の人と結婚したい…と漠然と思っていたのです」と西石垣さんは当時を振り返る。「1995年に誠志堂ビルに沖縄料理屋を開店して、3カ月目に石垣島出身の自衛隊員がお客さんとしてやってきた。それが今の夫です。夢って、かなうんですね」

 「Dreams Come True」は、西石垣さんの信条。今までの人生では、「夢見たことが実現できてきた」という。様々な夢を実現しつつ、行き着いたのが今の「沖縄」と「万華鏡」の仕事。「生まれ育った六本木に、大好きな沖縄がやってくるといいなあ」。…沖縄に魅せられた西石垣さんの夢が、実現するまでの道のりをたどってみた。

沖縄料理の専門店、「島唄楽園」の店内

沖縄料理の専門店、「島唄楽園」の店内

 西石垣さんと沖縄の最初の関わりは、小学3年生の頃。当時人気絶頂だった沖縄出身の5人兄弟グループ、「フィンガー5」が大好きだった西石垣さんは、「彼らがうちの学校に転校してきたらいいなあ」と思っていたそうだ。すると通っていた麻布小学校に、本当にフィンガー5の紅一点、妙子が転校してきたのだ。西石垣さんの3歳年上の兄は、妙子と同級生に。南国に淡い憧れを抱き始めた、最初の出来事だった。

 その後中学校に進んだ西石垣さんは、写真部に入部。写真好きで、ロシアに写真留学に行ったという祖父の血を引いていたのかもしれない。家には、父のニコンのカメラなどがゴロゴロしている環境だった。

 1980年に日大桜丘高校に進み、アメフト部の写真を撮りにグランドに日参した。「フォトジャーナリストになりたい」という夢が、心の中でぐんぐん育っていったのは、この頃だ。

 夢を最短距離でかなえようと一度写真学校に入り、日本大学文理学部に入学し直した。写真の師匠に「アメフトの写真ばかり撮っているが、被写体への迫り方が足りない。もっと入り込め」と言われたからだ。

 当時日大のアメフトといえば篠竹幹夫監督率いる黄金期、3年連続日本一の「日大フェニックス」。頼み込んで、押しかけマネジャー兼専属カメラマンとして入部した。日大創立100年記念に公開されたアメフトファンには幻の名画「マイフェニックス」(監督:西河克己、1989東宝、主演:宍戸開)のヒロインのモデルは、なんと西石垣さん本人だ。

 「女性の目から見たアメフトがテーマで、私の役を富田靖子さんが演じたんですよ。新宿アルタの前に、私が撮った写真が大看板で飾られて…。学生ながらセミプロのカメラマンとして、けっこう稼いでいました」

 日大を卒業後、1988年に、アメフト雑誌「TOUCH DOWN」を発行するタッチダウン社に就職し、記者となる。「怖い人」と恐れられていた篠竹監督の「笑顔を撮れる」貴重なカメラマンとして、西石垣さんは既に有名だったのだ。

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