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【第14回】突然のテナント撤退後、店を沖縄料理屋に

誠志堂マイヤーズ 3代目 西石垣文江さん【後編】

  • 白河桃子

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2008年3月3日(月)

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 (前編から読む)

 1995年は、西石垣さんにとって大きな転機となる年だった。まず、ずっと応援していたアメフトのチーム「サンディエゴ・チャージャーズ」が全米2位になったこと。自らの出身校日本大学も、西石垣さんが応援している時期に連続日本一を成し遂げている。

誠志堂マイヤーズ 3代目 西石垣文江さん

誠志堂マイヤーズ 3代目 西石垣文江さん(写真:山田 愼二)

 弱小と言われたチームをずっと追いかけ、取材し、彼らの活躍を記事にしていた西石垣さんは、悲願を達成した後との一種の「抜け殻」状態にあった。そこに実家の危機――実家が管理しているビルからの、突然のテナントの撤退――という大事件が降りかかる。内装もそっくり残された居酒屋の跡。…居ぬき(店の外装や内装をそのまま使って、新サービスを始めること)で、自分がなんとかするしかない!

 西石垣さんは8年間勤めたタッチダウン社を、6月に退社。スポーツジャーナリスト生活に終止符を打つ。そしてお店をやる決意とともに、食品衛生責任者、調理師、バーテンダーの免許を取得することにした。しかし、ここをいったいどんなお店にしたらいいのか? コンセプトは? なるべく低予算で、何ができるのか? しかも場所は六本木のど真ん中の一等地である。

 「六本木には世界中の料理がある。今までにないものを求めて、タッチダウン退社後に海外を視察に行きました」。シンガポールやドイツにも足を伸ばした。ドイツではちょうど、ビール祭りに遭遇。よそ者も村人も、1万人入るテント会場で肩を組み、ビールを片手に大合唱している。国境も人種も超え、みなが豊穣を祝う様子を見て、「あれ、この光景はどこかで見たなぁ」と思った。「気がついたら、それは沖縄の野球場に何千人もが集まる『オリオンビール祭り』でした」

 海外まで行ったけれど、ヒントは意外に近いところにあった。

 そうだ、沖縄だ。沖縄料理、それも観光客が食べたことのない、本物の家庭の味の料理屋を作ろう。当時、東京にあった沖縄料理屋は、10~20人くらいしか入れないような家族的な店が多かった。そういった店は、常連の席まで決まっていて、新参の客は入れない。

 「一般の沖縄ファンも気軽に集まれる店、自分があったらいいなと思うような店をやればいいんだと思ったんです」

 幸いタッチダウン時代の知人が、ある沖縄の店を紹介してくれた。今では珍しくないが、当時は斬新だった「モダン沖縄」の店。ジャズが流れて泡盛が飲めるような店である。その店をプロデュースしたのが、ソムリエとして有名な田崎真也さんのいとこ、沖縄に移住していた田崎聡さん(1986年に沖縄移住。雑誌「うるま」「沖縄スタイル」の創刊編集長、飲食店プロデューサーとして多方面に活躍。現在、沖縄・奄美スローフード協会会長)だったのだ。またまた西石垣さんは運がいい。

 「ソフトはないが、ハコはあります。田崎さんにプロデュースをお願いしました。10月に沖縄に行き、田崎さんにこちらに来てもらって、11月22日にオープン。準備期間はわずか1カ月でした」

古酒と沖縄料理の店 島唄楽園の店内

古酒と沖縄料理の店 島唄楽園の店内(写真:山田 愼二)

 そしてできたのが「古酒と沖縄料理の店 島唄楽園」である。名義は父親だが、西石垣さんは、初めて銀行との折衝に臨んだ。求人や店の清掃、ビールを入れる会社まで、すべてアメフト関係の先輩や後輩の縁で何とかなった。これまでに積み上げてきたものが、「素人でありながら1カ月で飲食店をオープン」という、無謀なスケジュールを可能にしたのだ。

 「料理は昔ながらの作り方の『お袋の味』にこだわりました。また、沖縄の店には音楽も欠かせません。店では大スターではなく、沖縄音楽界の若いミュージシャンがライブをやれるようにし、彼らの東京への登竜門にしたいと思いました」

 「ニーニーズ」というグループも、ここからデビュー。夏川りみも島唄楽園でライブをやっている。西石垣さんの頭にあったのは、博多で長渕剛ら数々のミュージシャンを生み出した伝説のライブハウス「照和」や六本木の「キャンティ」だった。

六本木に沖縄がやってきた

 「同級生のお父さんがキャンティの料理長だったのです。大人が、背伸びしている子供を引き上げてあげる場所、文化の交流拠点、キャンティに憧れていました。何気ない出会いが結びつく場所。東京に働きに来ている沖縄の人が、『これが沖縄料理だよ』とナイチャー(内地の人)に自慢できるような場所。私の店は、そんな存在でありたいと思ったんです」

 西石垣さんの夢、「大好きな沖縄が六本木に来たらいいなあ」という夢は、こうして現実になったのである。さらに店をオープンして3カ月後に、客としてやってきた石垣島出身の夫と店で出会うことになる。1995年は本当に、西石垣さんにとって新たなスタートの年になったのだ。

 しかし、店のオーナーとして起業したとはいえ、西石垣さんの頭の中にはまだ「経営」という2文字はなかった。経理は会計士に任せ、オーナーとしての仕事は、見せられた数字に「はいはい」とうなずくぐらい。しかし2001年、頼りにしていた母が亡くなるという出来事があり、2002年に西石垣さんは一念発起して、起業塾に入門する。

 「うちはもともと、男性ではなく女性が仕切る家系。夫も兄も帳簿を見ない人。母が亡くなり、じゃあ、私しかやる人がいない、ということに気がついたんです」

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