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法の狙いはズレていないか?

市民の司法参加に必要な条件(CSR解体新書36)

2008年4月8日(火)

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 前回はエイプリルフールということで、嘘を書いたわけではありませんが記事に少し仕掛けを施してみました。米国の「差別陪審」に関して「罪刑法定主義」という日本語の訳語を使われたのは、実は刑法の團藤重光教授なのです。以前そのご教示の通りに、私の名前で話をしたところ、法律関係者と思しい人から、上からの物言いで指摘を受けました。何か言い間違えたかな、と慎重に準備し直して、もう一度別のところで試してみると、やはり同様の反応がある。これは…ということで、「四月馬鹿」のオンエアで試してみたわけですが、いかがだったでしょうか?

「差別陪審」と罪刑法定主義の精神

 2007年2月10日、私はNHK・BS番組「地球特派員」の取材で米国ノースカロライナの州都ラレイで行われたHK on JS(Historic Thousands on Jones Street)というデモ行進と集会に参加しました。Kというのは1000人で「キロ」だそうです。実際5000~6000人ほどの人が集まっていました。そこで北米東海岸中南部のノースカロライナ州などでは、現在も黒人層やヒスパニックに対する差別が白人中心の陪審を大きくゆがめてしまう現実を知りました。

 レイプや殺人などの事件で、前科があったり、素行不良だったりする容疑者が、不十分な証拠で逮捕され起訴されることが少なくない。それが陪審裁判で裁かれ有罪を宣告されて、刑に服している。たまたま物証が残っていたケースでDNA(デオキシリボ核酸)鑑定などを行うと、次々と冤罪が判明する。しかし決定的な物証がないまま無実を主張している受刑者も数多い。ここには法による支配rule of lawが成立しておらず、憲法に保障された人権が蹂躙されている。こういう主張がなされていました。

 帰国してからこの「差別陪審」の問題をめぐって国内の先生方にお話を伺いました。上智大学のホセ・ヨンパルト名誉教授は「法治」が成立していない状況は「人治主義」で、法治国家A constitutionalstateが実質的に崩壊していると説明されました。ここで「差別陪審は罪刑法定主義の根幹を危うくする」と指摘されたのが團藤先生でした。

 差別陪審でも、見かけ上はいわゆる法の手続きとしては正当とされる手順due processが踏まれています。しかし白人層の多い陪審員の黒人やヒスパニックの人々に対する人種的偏見に基づく誤謬で、無実の人が罪に陥れられてしまう状況が社会に固定化している。この状況は罪刑法定主義の根幹を危ぶむものと團藤先生は言われ、このように続けられました。

 「最近の若いひとは法解釈ばかりやって法の精神を全く理解していない。もちろん解釈学はとても大事だ。しかし法には表面に表れる以上の精神がある。文化としての法を、大学も刑法学者も全く分かっていない」

 (正確な一言一句は違うかもしれませんので、本稿も團藤先生にチェックしていただいてからオンエアしています。ただし、本文中にあるかもしれないミスはすべて伊東の文責によるものです)

 米国の差別陪審は一見遵法的な手続きを踏むように見えながら、恒常的に冤罪をつくり続けている。ここで問われるのは法治の根幹であること、そして「罪刑法定主義の精神」への深い理解の大切さを、團藤先生は強調されました。

 そこでご紹介があったのが、先週引用したチェザーレ・ベッカリーアの原典です。

 ベッカリーアの名を挙げながら、團藤先生は、現在日本への導入が急がれている「裁判員制度」が、いかに民衆の内部からわき上がってきたものでないかを説かれました。

 何らかの理由で役所と学者が考えついて、木に竹を接ぐように作られたものであること、その不用意な運用は容易に法治国家日本の罪刑法定主義の根幹を揺るがしかねないこと、法の解釈に当たっては、必ずしも文字で書かれない、その精神を理解することが決定的に重要であること、しかしそれが簡単に忘れられたり、別のものにすげ替えられたりすること、などなどなど。こうした批判に続いて、刑罰の「比例原則」が成立し得ない不可逆的な死を刑法は宣することができない、という團藤教授の死刑廃止論の議論になりました。

 ちなみに、團藤先生ご自身が死刑廃止論を説かれると、廃止論者の聴衆は当然、大いに賛同します。そんな時、存置論者や態度を決めかねている人は、微妙で畏れ多げに沈黙して、その場の時が過ぎます(そういう場に幾度か居合わせる経験があります)。そこで述べられるのとほぼ同様の内容を、法の素人である私が言うと、「だから素人はダメだ」といった風情の指摘をほぼ確実に受けます。

 同じことを言っても、発言者によって態度が変わるとすれば、これは科学的なやり取りとは言えません。そうした議論は学術ではなく、権威を背景とする根拠のない駆け引きになってしまいやすい。それに注意したいのです。

法廷は根拠のない駆け引きでよいのか?

 今、法の素人の市民が審理に参加しようという現在日本の状況下で「普通の法律関係者」が状況をどう捉えているか、法律家が市民を上から見下したりしていないか、そういった検証が目の前でシミュレートできるかな、と思って、エイプリルフールの企画を考えてみました。もちろん、すべての文責は私にあり、瑕疵や誤謬があればどうかご指摘いただければ幸いです。謙虚に伺いたく思います。

 私がわざと交ぜたのは、例えばベッカリーアの「原則」に照らせば市民裁判員の模擬法廷で重罰判決が出る傾向は「誤判」など、見る人が見れば反応しそうなフレーズです。言うまでもなくベッカリーアの原典は日本の現行法ではないのだから、「誤判」という表現は強すぎます。一番のひっかけは「罪刑法定主義」そのものと、必ずしも明文化されていない「罪刑法定主義の精神」とを同じように記したことで、こういう書き方をすると「概念を理解していない」「複数の概念を混同している」などと指摘されることが多いです。

 しかし、ここでちょっと考えてみていただきたいのです。

 2009年以後、市民裁判員に選ばれる普通の人々で、いったいどれだけの人が、各種の概念を正確に理解しているでしょうか? あるいは裁判員裁判の開始後、判決を下した後で裁判員経験者を調べてみて、こういった概念をきちんと分別理解して審理に加わったひとが、どの程度いると期待できるでしょう? 

 法務省自身は、そんなことは考えていないように見えます。

では、法廷でのやり取りは、素人相手の根拠を欠く、こけおどしのようなやり取りでよいのでしょうか。

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中村 克己 元ルノー副社長、前カルソニックカンセイ会長