「“勝ち組”以外のキャリア教育」

工業高校が地方小都市を再生する(2)
〜教育を守るヒントは「七人の侍」に

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2008年4月18日(金)

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 連載第1回に、数多くのご意見、ご感想をいただきました。厚く御礼申し上げます。

 この長井工業高校の物語を、皆様がそれぞれ直面している生活の現実にひきつけ、切実な関心を持ってお読みいただいていることに感動し、勇気づけられました。また、専門高校(職業高校)の現場に近い方、地方部にお住まいの方からの生の声には、教えられるところが多くありました。今後の取材、執筆活動に生かしていきたく思います。

 そこで、一つお願いがあります。

 本シリーズでは、これからも全国のキャリア教育実践を紹介していきたいと考えています。皆様の周囲でユニークな事例がありましたら、自薦他薦を問わず編集部までお知らせいただけませんでしょうか。今後の企画の参考にさせていただければ幸いです。(松田尚之)

(編集部へのご連絡は本記事コメント欄をお使い下さい。他の方にお見せになりたくない場合は、「このコメントを公開してもよい。」のチェックをお外しください。よろしくお願い致します)

(1回目“「こんにちは」が自然に響く元教育困難校”から読む)

 「一番強烈に印象に残っているのは、生徒の集団授業ボイコット事件です。ある朝、いつものように教室に行ったら、生徒が人っ子一人いないんですよ。びっくりして外に飛び出してみると、校舎の入口に3年生の番長グループが立ちふさがり、下級生たちに『帰れ、帰れ』と指示している。タバコ、万引き、ケンカなど生徒たちが巻き起こすトラブルには慣れているつもりでしたが、さすがにこれには参りました。1980年前後のできごとだったでしょうか」

「かつては生徒指導に苦労した」と振り返る長井工業高校の渡部慶蔵教頭(現校長)
(撮影・佐藤)

「かつては生徒指導に苦労した」と振り返る長井工業高校の渡部慶蔵教頭(現校長) (撮影・佐藤)

 ものづくりを通じて生徒たちの意欲を引き出し、国家資格である技能検定試験などの目標を与えて挑戦させることで力を伸ばす。前回、そんな長井工業高校の実践が、地元企業への就職に直結するキャリア教育として機能しはじめているようすを紹介した。

 同校のここに至る道のりはけっして平坦なものではなかった。わずか十数年前まで、いわゆる教育困難校に分類される、問題山積の学校だったのだ。在職歴の長い渡部慶蔵教頭(2008年4月より同校校長。以下略)は、かつての生活指導の苦闘をあれこれ語ってくれた。冒頭に紹介したエピソードはその一つである。学校としての秩序が根本から覆りかねなかった長井工業高校が、現在では地域の希望の星になりつつある。再生の歴史を振り返ってみよう。

 長井工業高校の創立は1962年。東京オリンピックを間近に控え、日本が本格的な経済成長を加速させようとしていた時代だ。当時山形県は、大企業の工場誘致を盛んに行うなど、農業県から工業県への転換をめざしていた。長井市も、戦前設立の東芝長井工場を前身とするコンデンサメーカー、マルコン電子の企業城下町として大きく発展しつつあった。同社を核に多数の町工場が経済の土台を形づくるこの地に、県立の工業高校が誕生したのはきわめて自然な流れだった。

 以来、長井工業高校は、毎年着実に中堅技術者・技能者を供給し続け、地域で大きな存在感を持つ学校になっていく。今日、長井の産業界では、石を投げれば長井工業高校のOBに当たる状況だ。地方都市では、歴史ある工業高校、商業高校、農業高校等の人脈が地域社会に深く根を張り、特有の重みをもつケースがしばしば見られる。長井市における長井工業高校も、まさにそうした位置づけの学校である。

 しかし、1970年代後半から1980年代に入るころから、長井工業高校の教育は困難に陥る。髪を派手な色に染める、太いズボンをはく、校内での喫煙、小さな暴力沙汰など、生活指導の対象となる問題行動が目に見えて増えた。「不良が集まる学校」と見なされるようになるにつれ、落ち着いて生活を送れる雰囲気は急速に失われていく。

工業高校、苦難の時代

 「たとえば3年生が修学旅行に行く際。下級生から小遣い銭を取り立てるという悪しき慣習が定着していました。要するに餞別という名のカツアゲです。行事があるたびに、この手の問題が起きてしまう。教員集団は必死に指導にあたりました。しかし、なかなか生徒たちと心を通じ合わせることができない。逆に指導が厳しすぎると反発を呼んだこともありました。集団授業ボイコットも、そんなゴタゴタの中で起きた事件だったんです。本当に苦しい時期でした」(渡部教頭)

一見私立高校かと思うほどモダンな長井工業高校の校舎(撮影・佐藤)

一見私立高校かと思うほどモダンな長井工業高校の校舎(撮影・佐藤)

 ひとたび学校の評価が落ちると、ますます意欲、学力の高い子どもが集まらなくなる。長井工業高校はそんな負のスパイラルに陥っていく。このころ同校を中退する生徒の数は、全校定員550名程度のうち年間20名前後にのぼっていた。

 ただし、こうした混迷は長井工業高校だけの問題ではなかった。この時期、日本全国の多くの工業高校が同じような困難を抱えていた。のちに述べる長井工業高校の再生ストーリーとも関係するので、当時の状況について、専門家の論をひきながら確認しておこう。

 教育学者の風間効は、『戦後工業教育の展開』(あづま書房)で、高度経済成長期以降の工業高校教育の困難を「高学歴社会」「脱工業社会」の切り口から分析する。「高学歴社会では……大学進学者のほとんどいない工業高校はそれだけでそこで学ぶ工業教育の意義が見出されず……存在すら危機に立たされる」「高学歴志向とすぐ就職することへの回避から、工業高校への志願者は普通高校への希望がたたれ、さりとて就職も望まない目的意識・学力・適性の低い生徒が多かった」。

 同じく教育学者の細谷俊夫は、『技術教育概論』(東京大学出版会)で、よりはっきりと工業という産業そのものの変化と工業高校教育の危機について述べる。「従来、中堅技術者の育成をスローガンとしてきた工業教育がもはやその名に値する教育機能を十分に果たすことができなくなった」。

 両者の議論を筆者なりに展開すればこういうことだ。経済成長と高学歴志向が進むにつれ、高校は大学等さらに上位の教育機関に進むための単なるステップになった。これにともない、職業人養成に目的を特化した工業高校は、偏差値序列の最底辺に位置づけられるようになった。ものづくりに興味があったり、ものづくりで身を立てようと考える中学生の進路だった工業高校が、「普通科などの受験に失敗した生徒の受け皿」としての機能しか持たなくなった。必然的に工業高校生の落ちこぼれ意識は強まり、それがさらに意欲を低下させる悪循環が生まれた。

 一方、日本全体の産業構造の変化、産業としての工業の高度化(ハイテク化、情報化等)も急速に進んだ。これにより伝統的な工業高校のカリキュラム、すなわち工業が労働集約的な産業であった時代の基礎技能等の価値が低下した。かつては金の卵とみなされた工業高校卒業者の輝きが失われた。

コンテストに向け、バッテリー電源で走る電動カートづくりに熱中

コンテストに向け、バッテリー電源で走る電動カートづくりに熱中

 こうした現象が並行して起きた結果、どんな変化が生まれたか。ものづくりに興味、関心がある中学生も、工業高校に進むより、普通高校を経て大学に進学する方が有利と考えるようになった。仮に工業高校で技術や技能を身につけても、将来それだけを武器に一生のキャリアを切りひらいていくのは難しいからだ。

 社会状況が大きく変化し、それまで工業高校が果たしていた役割が現実とズレた。入口(入学者集め)と出口(卒業生の進路選択)で社会とうまく接続しなくなったことが、そこで行われる教育の空洞化を招いた。高度経済成長期を終えて以降、多くの工業高校が低迷した本質的理由はここにあると筆者は考える。

 長井工業高校に話を戻そう。渡部教頭は、同校が独自に抱えていた困難として、次の点もあげる。

地元とのミスマッチが拡大、そして

 「当時は、地元長井市の生徒に加え、20キロほど離れた米沢市からも一定数の生徒が入学していました。米沢は都市の規模も大きく、伝統校を含め高校数も多い。そこに進学できずに片田舎の長井の工業高校まで流れてくる生徒たちは、どうしても落ちこぼれ意識を持ってつるむようになってしまうんです。そして誰も自分を知る人がいないまちだという思いから、つい誘惑に負けて万引きなど非行に走ってしまう。もちろんいちがいに米沢の子が悪かったとは言えませんが、そんな傾向があったのは確かだと思います」

 「そのころの本校には、機械科、電子科、化工科の3学科がありました。このうち機械科と電子科は中堅企業を中心に長井に就職口がかなりあった。ところが化工科は、学んだ知識を生かせる進路が地元にあまりなかったんです。そもそも化工科は、長井随一の大企業であるマルコン電子から採用があることを見込んで設立されました。しかし時代の流れとともに、同社の採用は減っていく。地元で就職しにくい化工科にはやる気のある生徒が集まらない。本校としては指導が難しい子どもを受け入れざるをえなくなる。このミスマッチからはじまる悪循環も、学校全体の雰囲気を悪くしていた側面がありました」

 そんな長井工業高校に最大の危機が訪れたのは、1994〜1995年ごろのことだ。

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著者プロフィール

松田 尚之(まつだ・なおゆき)

1968年、東京都生まれ。出版社勤務を経てフリーライター。主要な執筆ジャンルはビジネス、教育、地域、エンターテイメント等。共著書に『いまさら人に聞けない! ベストセラービジネス書のトリセツ』他。



このコラムについて

“勝ち組”以外のキャリア教育

 大企業で働くホワイトカラーに象徴される高偏差値エリートを「勝ち組」、それ以外の生き方を「負け組」「落ちこぼれ」と見なす。そんな価値観、心性が一般的になり、子ども、若者もその影響を強く受けるようになっている。しかしそれは、バーチャルなキャリア観にすぎない。キャリア教育の意味、真価は、こうして偏りのある情報で頭でっかちになってしまった子ども、若者に、リアルなキャリア観を育むことにあるはずだ。

 社会全体のパイが拡大する時代が終わり、少子高齢化、雇用環境の変化、格差社会化が進んでいる。教育界の外にある、この状況を踏まえた上で、どう生涯を展望する道を見出すのか。メディアが煽る「勝ち組」に誰もが入れるわけではない。しかしその人の持ち味を生かした等身大のキャリアは必ずどこかにある。そのことを提示できれば、キャリア教育の役割はひとまず果たせたといえるのではないか。

 現実問題として、特に地盤沈下が著しい地方部に目を向けると、多くの子ども、若者が、非常にシビアな課題に直面していることが見えてくる。自分ひとりの人生だけでなく、家族や地域のこれからを背負って生きていく覚悟を迫られているケースも少なくない。キャリア教育は、そんな彼ら彼女らを励ます、地に足のついた幸福を探る足がかりであってほしい。筆者はそんな願いを胸に、地方のキャリア教育の現場に旅立つ。

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