連載第2回にも、たくさんの貴重なご意見や情報をいただき、ありがとうございました。
引き続きお願いをさせてください。
注目すべきキャリア教育実践の事例がありましたら、編集部までお知らせいただけませんでしょうか。今後も専門高校の現場を訪ね歩きますが、その他の教育機関や教育者など、事例の枠組みはなんでも結構です。今後の企画の参考にさせていただければ幸いです。(松田尚之)
(編集部へのご連絡は本記事コメント欄をお使い下さい。他の方にお見せになりたくない場合は、「このコメントを公開してもよい。」のチェックをお外しください。よろしくお願い致します)
「東京では実感が湧かないかもしれません。でもいま、地方の人間は本当に切迫した危機感を持っているんです。少子化が進み、産業構造が変わって、このままでは近い将来に地域社会が成り立たなくなる。私も企業経営者ですが、会社を守ろう、ここで踏ん張って生きていこうと思ったら、自分のところの利害だけを考えていたらダメ。地域ぐるみで、この先若い連中が生きていけるしくみをつくらないと」
山形県立長井工業高校が廃校危機に追い込まれた際、存続に向け大きな力となったのが、地域ぐるみで展開された新校舎建て替え運動だったことは前回触れた。経済界、行政等のまとめ役となったのが同校体育文化後援会会長の吉田功さんだ。当時の思いを尋ねると、氏はゆっくりと、しかし熱っぽく語り始めた。
これは学校のサクセスストーリーではない

「ものづくりのまち長井の未来は人材育成にかかっている」と吉田功さん(撮影・佐藤)
「だからこそ教育は学校にお任せ、なんて言っていられない。長井の子どもたちは、長井のみんなで育てる。工業高校は、工業のまち長井の生命線。この学校は先生、生徒、親だけのものじゃない。地域の財産なんです。だからどんどん意見も言うし、支援もする。潰すなんてとんでもないですよ」
長井工業高校のキャリア教育を紹介してきたこの連載。関係者に取材を重ねるうち、筆者はこれを学校内部で完結するサクセスストーリーと捉えてはいけないと感じるようになっていった。校舎建て替え運動の他、学科再編等にも地域の声が大きく反映されたこと、学校と地域の信頼関係が深まったことが同校再生のポイントだった。長井工業高校の改革を考えるキーワードは、どうやら「地域」なのだ。
ならばいったん学校を離れ、地域の視点で長井工業高校を見つめてみたい。渡部教頭(2008年4月より同校校長。以下略)ら学校関係者にそんな意向を漏らしたところ、ぜひ吉田さんに会ってこいという。そこで筆者は氏の会社を訪ね、じっくり話を伺ってみることにしたのである。
吉田さんは長井市内で、精密部品加工、省力化機械設計製造などを行う吉田製作所を営んでいる。長井工業高校定時制(現在は廃止)を第1期生として卒業後、一代で全国の有力企業に信頼される現在の会社を築いた。長井市経済界の顔役であり、長井工業高校とも長年にわたり深いかかわりを保ち続けている。
同校が「荒れた学校」だった時代、また不況で高卒就職市場が極端に冷え込んだ時代も、吉田さんは自分の会社にその卒業生を数多く採用してきた。プライベートでも、町なかで喫煙等のわるさをする生徒を見つけるたび、ガツンと説教を食らわしてきたという。要するに吉田さんは、長井工業高校の歴代生徒に対し、「ちょっとおっかないけどあたたかい、地元町工場の名物オヤジ」であり続けてきた人物なのだ。
頑固な一言居士とも形容できる吉田さんは、長井についておおいに語ってくれた。氏が長井工業高校に寄せる期待は明確なものだった。
人の流入は考えられない。だから地元の子を育てる

コンテストに向け、紙で建築模型をつくる(撮影・佐藤)
「長井は新幹線も高速道路も通らない、中央から見れば本当に遠い、小さなまちです。大企業が去って、残っているのは中小企業ばかり。東京のように、大卒の若者をどんどん雇用できるような状況にありません。人材が流出することはあっても、流入することは考えにくい。だからこそ、このまちで生まれ、地元の高校を卒業した子どもたちをみんなで一人前に育てる。未来の担い手になってもらう。これからの地域間競争の時代、それだけが地方小工業都市長井の希望の光なんですよ」
筆者は、こうした吉田さんの言葉を聞きながら、あらためて長井工業高校で出会った先生や生徒たちの真剣な表情を思い返した。そして同校のキャリア教育が、はじめから普遍的な「理想」として構想されたものではないことが腑に落ちた気がした。
長井には、直面せざるをえない地域崩壊の危機感がある。その裏返しとして、次代を担う地元の子どもたち、若者への期待がある。ここに焦点を絞った、ローカルでプラグマティックなキャリア教育に挑戦していることに、長井工業高校の最大の特徴がある。だからこの実践は、単に「学校教育」の枠組みではなく、「地域人材の育成」という枠組みで考えられるべきものなのだ。
この地域の状況を俯瞰する、もうひとつの視点を紹介しよう。長井市商工観光課・横山照康さんによる、行政の立場からの証言だ。
地元長井市出身の横山さんは、東京での会社員=営業マン生活を経て、故郷の行政マンにUターン転職した。いくつかの部署を転々としながら、一貫して「お役人」らしからぬ発想でまちづくりにかかわってきた、同市の産官学連携のキーマンのひとりだ。その話は、戦前戦後の長井を振り返るところからスタートした。以下、筆者による要約と横山さんの説明を記す。
企業城下町、円高に落城
長井市の現代史は、1932年に誘致された旧・東京芝浦電気長井工場(のちのコンデンサ専門メーカー・マルコン電子)の存在を抜きにして語ることができない。最盛期の同社は、関連子会社を含め長井市の製造業従事者の3割にあたる約2000人を雇用。製造品出荷額も全体の4分の1である250億円を超えていた。つまり長井市は、高度経済成長期を経て1980年代の円高不況前まで、典型的な企業城下町として成長した地域だった。
※長井市のGoogleMapはこちらから

長井市産官学連携のキーマン、横山照康さん
「中心企業であるマルコン電子が元気だったころは、行政の産業支援政策はそんなに必要なかったんです。業績を拡大する同社を頂点に、そこから仕事を受注する電子部品、弱電関係を中心に数多くの中小製造業者が育っていった。人口約3万人規模のまちに、こうしたピラミッド状の産業構造が確立すれば、経済、雇用、住民の生活はおのずと安定しますから」
ところが長井の幸福な状況は、1980年代後半ごろから徐々に変化していく。人件費上昇、円高圧力などにより、電子部品産業全体が厳しいコストダウン競争にさらされるようになったからである。各社が生産拠点の海外シフトを進める中、マルコン電子本社工場も徐々に操業規模を縮小。関連会社も含めて地元の雇用状況は急速に悪化していった。1995年、同社はとうとう競合企業である日本ケミコンに買収されてしまう。製造品出荷額、従業員数は半減、長井の地域経済は厳しい事態に追い込まれた。
長井工業高校の廃校話が取沙汰された時期は、このマルコン電子の縮小清算が進んだ時期とぴったり一致する。
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