どんなに世情に背かれても、米を作らないわけにはいかない。自分が生まれた土地への敬愛であり、やがて帰る土への、独自の信仰です、と、米作り2年生、元県立高校校長の高橋直栄さん(68歳)が語る。
高橋さんは、新潟県東頸城(くびき)郡松之山町(現十日町市)という、典型的な山間地の農村に生まれ育った。豊凶に泣き笑いする農民の姿を血肉に刻んできた人物である。
食い詰めて、一家が離散していった後の寂寥や、老いた老人が「おらイラズだで」と自死していった悲劇を目の当たりにしてきた。
ちかごろ、一般名詞として定着した感がある「限界集落」という言葉。この概念作りをしたのは、大野晃氏(長野大学教授)である。高知大学に籍を置いていた若い日、過疎化していく松之山の農家を訪ね歩いている。そのときの調査研究に同行したのが高橋さんだった。大野氏は高橋さんに「強い言葉だが、そう表現せざるを得ない情況」と語っていたらしい。30年ほど前のできごとだが、2人は当時から、農村に対して共通の問題意識を持っていた。
区画整理や農地転用、耕作放棄…。変貌する農村風景に胸を痛めてきた
高橋さんは、家郷の松之山にはひと方ならぬ郷土愛を抱いている。子どもたちは自立して都会に住み、今は妻と2人、終の棲家と決めた天水島(あまみずしま)で静かな日々を送りながら、限界集落の明け暮れを見つめている。
生まれた場所、育まれた土地、嫁をもらい家庭を結び、吾が子を育てたところ…そんな家郷が、昭和30年代後半から、急速に過疎化していった、と話す。経済成長に伴って、都会へ出ていく先輩や同級生を数多く見送った。食糧管理法、減反政策、農協の呪縛、土建業を勃発させ、肥やすばかりの農政に、変化と歪みを強いられ、翻弄されてきた農村・農家を、同じ目線で見てきた。
同時に高橋さんは、区画整理や農地転用、耕作放棄…時代ともに見慣れた農村風景が変貌していく様に胸を痛めてきた。1万人を割り込むことがなかった人口も、東京オリンピックが開催された昭和39年には、およそ9800人に減少し、現在は2800人ほどになっている。
たった1人でも、絶望の淵に立っていても、何か行動しなければ
「失われていく農的風景を、どうやったら止めることができるか、そのことばかりを考えてきましたね、歯止めは米作りしかないんです」
そんな折に戸邊秀治さんが登場した。
「戸邊さんが、松之山にやってこられて、人力で米作りを始めたことを知り、興味を持ちましたね。そして知り合ってみれば、彼のやり方の中には、今後の農業を考える上で、いくつかの大切な方法が含まれていると感じたんです。田を耕さないとか、年中、冠水させておくことも1つです。ところが、ここは典型的な田舎ですから、外からやってきた人には閉鎖的なんですね、口さがない人がありもしない噂をする。下手をしたらそんな人たちに潰されてしまいますからね。孤軍奮闘する戸邊さんの力になりたいと思いましてね、一番いいのは弟子入りすることだったんです」
それで去年から、自分の1反(300坪・約10アール)の田で米作りを始めた。
「やってみれば、これが生きがいになっていく。大学で勉強した化学が役にも立つ」
米作り2年目の今年は、10年前から減反政策で仮放擲されていた1反の田んぼを借り受け、復活させることにした。重機を入れなくては、どうにもならないほど荒れていたが、なんとか田植えができるまでに復元。あとは、戸邊家の面々と近所に住む同級生の婦人、初老の女性の助力を得て、無事、田植えを済ませることができた。
田植えの後の高橋さんの表情は、晴れやかに上気していた。
戸邊さんが言う。
「なおえさんの田んぼ、草取りでたいへんです。1日2時間ばかり作業をする日が5日ばかり続いています。きょうも石黒さんと朝から作業をしてきたところです」
除草剤は使用しないため、やたら草が生えてくるらしい。特に無農薬の米作りは、草との格闘を覚悟しなければならない。しかも、戸邊さんの農法は「誰にでも簡単にできる」ことを謳っている。無様な田の姿を他の農家に見られるわけにはいかない。戸邊さんの助力も大仕事になっている。
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