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財閥が尻込みした「製鉄業」に乗り出す

丁稚が創った世界企業~金子直吉伝・9

  • 山岡 淳一郎

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2008年9月1日(月)

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 鈴木商店の重工業路線は、「神戸製鋼所」が起点となった。金子が前身の小林製鋼所という不安定な会社を買収したのは、1905(明治38)年9月。じつは、この買収劇、金子が望んで仕掛けたのではない。「その日の出来心で浮気をしたような」ものだった。


(イラスト:茂本ヒデキチ)

 その頃、日本は日露戦争にどうにか勝利を収め、軍需をテコに重工業を立ち上げようとする機運が高まっていた。

 鍵を握るのは「鉄」だ。
 が、肝心の鉄鋼業は、いまだ「夜明け前」の深い闇に包まれていた。

 「鉄は国家なり」といわれる。この言葉は、ビスマルクの「ドイツの問題(統一)は言論によって定まらない。これを解決するのはただ鉄と血だけである」との軍事礼賛に由来するが、西欧を追って近代化を進めた日本でも、砲弾や大砲、戦艦といった軍事用だけでなく、鉄道、商船、土木建設と民生部門でも鉄の需要が急増していた。

 しかし、国内で必要な銑鉄や鋼材の9割ちかくは、イギリスをはじめとする外国からの輸入で賄われていたのである。鉄鋼は、日本のアキレス腱だった。もし何らかの事情で鋼材を輸入できなくなったら、富国強兵の国是はあえなく潰えてしまう。

 政府は、三井、三菱に製鉄業に乗り出すよう呼びかけるが、両財閥は、拒んだ。当時の日本の技術水準では、近代製鉄は「超ハイテク」の高嶺の花、梯子をかけても届かない。おまけに設備投資には莫大な資金を要する。民間では不可能、と三井、三菱は尻込みした。確かな儲けが見込めるまで、しばらく、ようす見を決め込んだフシもある。

 政府は、ドイツに技術的支援を仰ぎ、福岡県遠賀郡に官営「八幡製鉄所」(現新日本製鉄)を創設した。燃料の石炭は後背地の筑豊に求め、鉄鉱石は中国大冶鉄山と購入契約を交わし、1901年、第一高炉に火が入った。

 しかし、工員たちが作業に馴れておらず、故障に次ぐ故障。溶鉱炉は詰まって、爆発を起こす。惨憺たるすべり出しだった。

「トンビに油揚げをさらわれた」金子に持ち込まれた話

 老職工は、ドイツ人技術者とのやりとりを、こう述懐している。

「ドイツ人と私ども作業する者との間では言葉が全然通じませんので、仕事の間に彼らが合図をする。指を一本だしてみせたり二本出したり、手をあげたりする。今でこそなるほどと理解もできることですが、当時は何もわからなかった。じれったくなったドイツ人どもが、首ったまをひっとらえにくる。ステッキを振り廻すので、だれもかれもひどい目にあったもんです」(『八幡製鉄所五十年誌』)。

 とうとう八幡製鉄所は、火入れから1年半で操業を停止する。日露戦争が始まって、1904年7月、ようやく溶鉱炉に再点火された。

 金子が鉄鋼業に手をつけた頃、民間では東北の田中製鉄所(釜石製鉄所の前身)と大阪の日本鋳鋼所が苦労して火をともしていた程度だった。日本鋳鋼は故障続きで住友に身売りしていた。

 最初にリスクをとって鉄鋼業に乗り出したのは小さなベンチャーだった。

 小林製鋼所も東京の書籍商・小林清一郎によって神戸の脇浜に設立されている。小林は、親戚の海軍技監の奨めで製鋼事業を思い立った。55万円の創業資金を鈴木商店から借り受け、大根畑のまんなかに、平炉で銑鉄から鋼材を製造する工場を完成させた。

 だが、やはりというか、イギリスまで技師を派遣して準備したにもかかわらず、華やかな開所式典の最中に不調が発生する。大挙して駆けつけた京阪神の金物業者が紋付に袴の正装で見守るなか、平炉から流れ出た溶鋼は、取鍋の半分ほどで固まってしまったのだ。湯道は黒ずんで溶鋼が途絶える。目を覆いたくなるばかりの大失敗であった。

 工場は操業不能に追い込まれ、小林は、開所からひと月も経たないうちに売却を余儀なくされた。当然、大口債権者の鈴木商店に相談がもちかけられる。が、そのとき……。

 小林の使者が樟脳工場を訪ねると、山高帽を被った金子直吉は、事務所で股火をしながら、呆然としていた。帽子のなかの頭には氷嚢が載せてある。「頭寒足熱」を励行しつつも、心ここにあらず、金子は魂を抜かれたようだった。

 と、いうのも、たった今、ノドから手が出るほど欲しかった西宮紡績が他社に買われたのを新聞で知ったのだ。

 金子は日露戦争が終結すれば、基幹産業の紡績業は大発展すると見込み、銀行とも話をつけて西宮紡績の買収を企図していた。経営が左前になった西宮紡績は、債権者が多いので水面下の交渉で買うのは難しい。差し押さえの可能性が高いので、それを待って、買収を仕掛ける腹積もりだった。機が熟すのを待った。

 ところが、金子が新聞を開くと、他の紡績会社が格安の値段で買い取った記事が目に飛び込んできたのである。しまった! 遅かった。掌中の玉を失くした悔しさがこみあげた。

 小林の使者は、「金子さん、どうしました。いつもの元気がないようだが……」と声をかけた。

「まぁ、聞いてください。僕もこれほどの阿呆ではないと思っていたが、大間抜けの骨頂やった。西紡を取られてしもた。トンビに油揚げをさらわれました。ああ、情けなや……」

 使者は、慰めをひとくさり口にして「東京の親父(小林)から貴下に相談せよ、とこれを預かってきました」と、懐から紫の風呂敷に包んだ書類を取り出した。

 「ほう」と、金子は半ば虚脱状態で書類に目を通した。そこには操業がままならない神戸製鋼を引き受けてほしい旨が経営計画とともにしたためてあった。虚を突かれた金子の判断力は、かなり落ちていた。

出来心の浮気で、鉄に手を出す

 「一応、考えてみましょう」と金子は、その書類を受け取ってしまったのだった。

 事業の「縁」とはじつに不思議なものだ。本命の西宮紡績の買収に成功していたら、おそらく金子は鉄鋼に食指を伸ばさなかっただろう。

 後年、金子は、製鋼所を引き受けたときの心境を、こう語っている。

「元来鈴木は砂糖、樟脳、薄荷のような商品を取り扱っていて、まことに地味な商店であって、鉄を湯にして鋼をこしらえるというような荒仕事はやりたくもしたくもないのであったが、このときばかりは、かの西紡の件でまったく脳神経が麻痺していたものとみえ、(略)色よい返事をしてその書類を受け取ったのである。(略)まったく西紡を取りそこなった精神が空虚になっていたところへ持ち込まれたから、製鋼業の至難なことも大資本を要することも一向頓着なしで、スラスラ引き受けてしまったものである。ゆえに鈴木商店における神鋼の引受けは、まずその日の出来心で浮気をしたようなものであった」(「神鋼三十年史」)

 きっかけは「出来心の浮気」でも、ことは「火遊び」ではすまされない。

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