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「構造改革」が金融恐慌の引き金に

丁稚が創った世界企業~金子直吉伝・16

  • 山岡 淳一郎

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2008年10月27日(月)

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 若槻禮次郎が率いる憲政会内閣は、未決済額が2億700万円に膨らんだ震災手形を「財界のガン」とみなし、処理を行う決断を下した。1927(昭和2)年1月26日、鈴木商店-台湾銀行の不良債権を大量に含む震災手形の処置法案が議会に上程される。

(イラスト:茂本ヒデキチ)

 ただし、この時点では、台銀の未決済額が1億円、そのうち鈴木関連が7200万円を占める事実は明かされていない。債務状況が表沙汰になると、信用不安を招く怖れがあったからだ。

 処置法案は、震災手形を持つ銀行に国債を交付し、その国債を担保に銀行は日銀から資金を借り入れて10年返済を条件に債務者に貸し付けるというもの。ありていにいえば、国債での穴埋めだ。もともと1億円までは政府が損失保証をつけていた。新たに1億700万円を日銀経由で投入し、不良債権問題にケリをつけようとした。

 蔵相の片岡直温は、その処理段階で鈴木-台銀の癒着構造にメスが入り、いくらかダメージを与えるだろうが、法案が貴・衆両院で可決成立し、資金を回せれば両者を救える、と読んでいた。国の一般会計予算が16~17億円の時代に鈴木傘下の事業資金は4億円。借金総額は4億5千万円とも噂された。この重工業関連会社を多数抱える大企業が倒れるようなことになれば、経済は大混乱に陥る。

 関西財界出身の片岡は金子直吉とも親しい。
 鈴木の救済は暗黙の前提だった。

中小金融機関の整理がもともとの狙い

 片岡の真の狙いは、乱立する中小銀行の整理、統合であった。震災手形を融通された銀行は、じつに96行に及ぶ。そこには台湾銀行と同じく植民地統治の特殊銀行として設立された朝鮮銀行(未決済額2160万円)、タバコ王の村井吉兵衛が興した村井銀行(同1520万円)、繊維系の近江商人がよりどころとする近江銀行(同930万円)など大手銀行も名を連ねていたが、深刻な経営危機に瀕しているのは未決済額1000万円以下の中小銀行とみられていた。震災手形の処理を行えば、その実情があぶりだされる。

 一方、三井、三菱、安田、第一など大財閥の機関銀行は、震災直後には台銀並の手形融通を受けたが、すべて決済を終え、安全地帯に逃げのびていた。銀行間の優劣がくっきり色分けされた。片岡は、大阪朝日新聞のインタビューに応えている。

「(震災手形処理の動機は)それを機会に震災地の二流、三流ボロ銀行の整理をいわば強制的にも断行しようとした点にある。(中略)震災地方には損失が多くてやってゆけない銀行が十一行あった。その十一行の整理のためには積立金を崩し、資本金も減らし、重役の私財を提供させ、さらにそのうえ震災手形の補償と貸付けのものを整理し、それでもなお足らぬところは預金者を集めてこの話をすればキットまとまるに決まっているから……」(「昭和金融恐慌秘話」)

 片岡は、整理対象の「ボロ銀行」の支払いを一斉に停止し、合併で新銀行を立ち上げる青写真を描いていた。その整理、統合のプロセスで資金源を失う中小企業は塗炭の苦しみを味わうことになるのだが、そこまで考えは及ばない。一刻も早く、震災手形の処理を、と焦っていた。

 片岡を急きたてたのは、財政当局と大財閥が主張する「大義」であった。明治維新から60年、薩長を主軸とする政府の官僚、政商としてのし上がった指導階層は、日本の資本主義経済の底に沈殿する矛盾を清算し、仕切り直しをもくろんでいた。

 その大義とは「金解禁」、国際金本位制度への復帰であった。

「痛みに耐えて成長を」という、どこかで聞いた声

 日本のエスタブリッシュメントは、マンチェスター・ガーディアン紙から「半世紀遅れている」と揶揄された銀行制度を改め、大戦中に禁じた金輸出を解いて(金解禁)、欧米と同じように金本位制に戻し、為替相場を安定させて巻き返しを図ろうとしていた。

 震災手形処理での銀行淘汰は、金解禁への地ならしだった。金解禁はパンドラの箱を開けるのに等しい。物価の下落、金流出による不況は避けられない。業績の悪い銀行や会社は破綻するに違いない。事前に傾いた銀行を整理、統合しておいたほうが耐力はつけられる。三井銀行の池田成彬らは、金解禁で一時的に不況に陥ろうが、厳しい環境でこそ国際競争力を備えた産業が育つ、と吠えた。

 はたして災厄が出尽くした箱の底に「希望」は残るのだろうか……。

 「国を背負って金を獲れ」と走り続けた金子直吉が、最後に挑んだ壁は、この金解禁に象徴される財界主流の思惑だった。金子のほんとうの敵は金解禁の圧力のなかに潜んでいたともいえる。

 ここで、震災手形の処置法案をめぐる政党間の抗争、昭和金融恐慌へと筆を進める前に、金解禁、金本位制の視点から経済潮流を俯瞰しておきたい。金解禁を、たとえば現代の構造改革に置き換えてみると、時代を超えて、支配層を覆う「空気」が浮かびあがってくる。

 そもそも金本位制度は、貨幣価値の基準に金を据えたしくみである。十九世紀初頭にイギリスが採用し、欧米諸国がこれにならって国際的に広まった。各国の貨幣価値は、1ポンド=金約7.5グラム、1ドル=約1.5グラムと金の重量で定められた。

 日本は、紆余曲折を経て、1897(明治30)年、本格的な金本位制度に組み込まれる。1円=金0.75グラムで、外国通貨との交換比率――100円=50ドル(49ドル845セント)――が、決まった。

金本位制という神話

 金本位制は、紙幣と金の兌換、金輸出の自由が支えている。仮に日米間の貿易で、日本が輸入超過になった場合、日本ではドル表示の為替需要が増えて、円ドルの為替レートは100円=50ドルの水準よりも下がる。そこで実勢の交換比率で円を余計に払うより、金を直接アメリカに送ったほうが得との判断が働く。この金の現物を輸送する水準(金現送点)は、諸費用を考慮したうえで、100円=49ドル38セントとされた。

 つまり円相場が、これ以下になれば金現送を行い、金が流出する。逆に輸出超過で円が高くなれば金は流れ込んでくる。結果的に為替は100円=50ドル前後で相場が固定される。金本位制は、金の移動で国際的取引を決済する手段でもあった。

 加えて、国内の通貨量は保有する金に連動していたので、国際収支が景気に強い影響を及ぼすとも考えられた。輸入超過で金が流出すると、国内の通貨はそれに伴って収縮。物価が下がり、利子が高くなり、信用が不足する。輸入は徐々に抑えられ、生産コストが下がって輸出が増える。国際収支は好転し、輸出は超過に転じる。すると金が流れ込み、通貨は膨張、物価が上がって景気が回復する。

 このような自動調節作用への信念、あるいは信仰が、金本位制の根拠として熱く語られたのである。

 しかしながら、各国の通貨量と金の保有量は正確に結びついていたわけではない。

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